なぜ箱根に「関所」が作られたのか? 厳格な監視システムと、知られざる女性蔑視の矛盾に迫る【連載】江戸モビリティーズのまなざし(15)

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江戸時代の都市における経済活動と移動(モビリティ)に焦点を当て、新しい視点からそのダイナミクスを考察する。

江戸時代の女性には旅行など無理

『双筆五十三次 荒井』歌川広重画では、老女の人見女が虫眼鏡で検査している。取り調べを受けるのは少年に見えるが、女性が男子に扮したと疑われているのだろう。
『双筆五十三次 荒井』歌川広重画では、老女の人見女が虫眼鏡で検査している。取り調べを受けるのは少年に見えるが、女性が男子に扮したと疑われているのだろう。

 では、箱根関所はどのように出女をチェックしたのか。「女手形」、今でいう通行証を提出させ、自分は大名の妻ではないと証明させていたのである。これを「女改め」という。さらに、怪しいと判断されると「人見女」という役職の老婆が現れ、すみずみまで身体検査した。

 手形には身元、同行人数などのほか、「耳の裏に腫れ物の痕」「足の指に灸の痕」といった身体的特徴も記され、わずかでも違いがあれば、人見女が容赦しなかった。髪をほどき、場合によっては裸にして確認した。それでも通行が許されず、何日も据え置かれることもあった。

 そもそも、女手形を発行してもらう自体が、面倒極まりなかった。江戸の庶民女性の場合は、まず居住地の名主(なぬし。町の自治にあたる役人)などから身元証明をもらい、次に町奉行所から旅行許可書を受け取り、最後に複数の幕府御留守居役の屋敷に持って行き、御留守居役の連署をもらう。それを携行し、箱根関所の役人に渡す。

 これでは、女性が箱根を越える旅に出るのは事実上、無理といってよかった。その理由を、歴史研究家の河合敦氏は

「幕府が女性を土地に縛りつけようとした」

ためと述べている。出産を担っている女性がよそへ移動するのを制限し、それぞれの土地の人口を維持する狙いがあったという。

 つまり、出女の監視は、大名の妻が江戸から逃亡するのを防ぐのみならず、女性を生まれ育った地から出さず、子どもを産み育てるのに専念させる国策でもあったわけだ。むちゃといわざるを得ない。人権侵害もはなはだしい。

 ちなみに新居関所では、西から江戸へ向かう「入り女」の監視も行った。

「関所周辺の女性が一旦関所以東へ旅立ち、期限内に再び帰っていることが明らかな場合に限って、関所奉行が手形を発行していた」(『館蔵図録 関所手形』新居関所史料館)

という。戻ってくるのが条件――ここにも土地から離れてはならないというルールがある。

 関所の歴史は江戸モビリティーズを考えるうえで大切であると同時に、女性蔑視という負の遺産も秘めている。現代は交通網が発達し、女性も自由に旅行できるが、それらは過去のあしき風習を経て成り立った歴史が存在する。

 一方、関所の厳格な監視システムがあったゆえ、江戸時代は平和だったともいえよう。箱根関所は平和と負の遺産という矛盾した問題を、現代に問いかけている。

●参考文献
・箱根関所物語 加藤利之(神奈川新聞社/かなしん出版)
・関所で読みとく日本史 河合敦(KAWADE夢新書)

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