なぜ箱根に「関所」が作られたのか? 厳格な監視システムと、知られざる女性蔑視の矛盾に迫る【連載】江戸モビリティーズのまなざし(15)
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アリの這い出る隙間もない警備体制
戦国時代に入ると、織田信長と豊臣秀吉は物流を阻害する要因として関所を廃止したが、のちの徳川幕府は、江戸を防衛するためには不可欠と考えて復活させ、さらに全国53か所に関所を置いた。
なかでも「重き関所」とされたのが、
・中山道の碓氷峠(群馬県安中市)
・木曽福島(長野県木曽郡)
・東海道の新居(静岡県湖西市)
そして、箱根の四つだった。
箱根の山は、西国(西日本)の大名が幕府に謀反を企てた場合、江戸に最も近い天然の要害だった。そこで本関(芦ノ湖畔)に加え、根府川(小田原)、矢倉沢(南足柄)、川村と谷ケ村(山北町)、仙石原(箱根町)の計6か所に関所を設け、アリの這(は)い出る隙間もないといわれる強固な警備体制を敷いたのである。本関が置かれたのは1618~1619(元和4~5)年と見られる。
これには、伊達政宗の進言もあったという。政宗が1601(慶長6)年、徳川家康の側近に宛てた書状に、
「はこ年(根)、あしから(足柄)に御番仰せつけば広き篭(かご)にて~」
とある。
箱根と足柄に御番所を置けば、「かごの鳥」という意味だ。何が、かごの鳥なのか――。それは、参勤交代で江戸に詰めている大名の妻子を、鳥のごとくかごに閉じ込められるということである。
幕府は大名の妻子に、江戸に住むよう義務づけていた。いわば人質として江戸に留め置き、謀反を未然に防ごうとした。この政策は、諸大名を統制するうえで重要だった。
だが、妻たちが町人などに扮(ふん)して無断で帰国する可能性もあり、幕府は神経をとがらせた。同時に大名が、ひそかに江戸に鉄砲を持ち込んで、武装化するのも警戒した。これを「入り鉄砲に出女」(いりでっぽうにでおんな)という。
箱根関所は、出女を監視することが最重要の任務だった。江戸から来て(出て)西へ向かう女性を、箱根で厳重に取り調べた。
一方の入り鉄砲は、西から来て江戸に向かう(入る)者を対象に新居関所で重点的に行い、箱根では緩かった。関所によって役割分担が決められていた。