トヨタはなぜ米国「EV生産」に踏み切ったのか? “トランプ流”踏襲のバイデンで思い出す、日本車ハンマー破壊の歴史【連載】方法としてのアジアンモビリティ(1)
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急速に変化・成長する経済圏として、世界的に注目されているアジア。この地域発のモビリティ・アプローチが、今後の経済において重要な役割を果たすことはいうまでもない。本連載では、アジアにおけるモビリティに焦点を当て、その隆盛に迫る。
ハンマーでたたき壊された日本車

もともと、1980年代に激化した日米自動車摩擦は、米自動車産業の雇用喪失に端を発していた。
低価格で高性能な日本車が日本から米国に輸出されるようになり、米国車の販売が低迷、米自動車産業は工場労働者の削減を進めた。その結果、工場労働者の怒りが爆発し、
「日本車がハンマーでたたき壊される」
事態にも発展した。
日米自動車摩擦が激化するなかで、日本の自動車メーカーは対米輸出の自主規制に踏み切り、やがて米国に生産拠点を設けるようになった。
トヨタは、1986(昭和61)年に北米初のトヨタ単独での車両工場として、トヨタ・モーター・マニュファクチャリング・ケンタッキー(TMMK)を設立、1988年にカムリの生産を開始した。こうして日米自動車摩擦は沈静化したかに見えた。