B-29爆撃機が執拗に「多摩エリア」を狙いつくした理由

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B-29爆撃機は1944年11月、最初の攻撃対象として現在の東京都武蔵野市を選んだ。その後も多摩地域を執拗(しつよう)な空襲で襲った。いったいなぜか。

戦後は「都心のベッドタウン」に

1967(昭和45)年に発行された地図。立川飛行場は1977年まで在日米軍の空軍基地でもあった(画像:国土地理院)
1967(昭和45)年に発行された地図。立川飛行場は1977年まで在日米軍の空軍基地でもあった(画像:国土地理院)

 この中島飛行機武蔵製作所が壊滅した1945(昭和20)年4月には多摩地域への夜間空襲も始まり、4月4日や4月24日の空襲では多摩の広範囲にわたって大きな被害が出ている。

 また、P51戦闘機による機銃掃射などもたびたび行われるようになり、終戦間近だった8月2日にも八王子を中心とした多摩地域に大規模な空襲が行われている。この日はほかにも富山、長岡、水戸などが空襲を受けている。

 空襲によって多摩の航空機関連の工場は破壊され、占領軍によって航空機の製造が禁止されたことから、多摩は航空機産業の集積地としての性格を失い、

「都心のベッドタウン」

として発展していくことになった。

 施設や工場の跡地も、その多くが別の目的に転用されている。中島飛行機は戦後は富士産業と改称し、さらに1953年には富士重工業となり、自動車メーカーとなった。

 中島飛行機武蔵製作所の東側は民間に払い下げられ、グリーンパーク野球場がつくられた。プロ野球の試合も開催されたが、土ぼこりがひどく廃止され、その後は公団緑町団地、都営武蔵野緑町アパートとなった。

 西側は米軍立川基地の将校家族用宿舎として使用されるようになり、1976年に返還されたことから都立武蔵野中央公園として整備されることになった。

 立川飛行場は米国が接収し、朝鮮戦争では輸送の拠点として活用された。しかし、その後に大型機発着のために立川基地を砂川町方面に拡張しようとしたが、反対する町民や支援者による砂川闘争に発展し、基地の拡張は不調に終わった。

 ジェット機が発着できない立川基地の機能は次第に低下し、1969年には飛行場機能を停止し、1977年に全面的な返還が実現した。跡地は昭和記念公園やファーレ立川、さらにららぽーと立川立飛などの商業施設等がつくられている。

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