B-29爆撃機が執拗に「多摩エリア」を狙いつくした理由

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B-29爆撃機は1944年11月、最初の攻撃対象として現在の東京都武蔵野市を選んだ。その後も多摩地域を執拗(しつよう)な空襲で襲った。いったいなぜか。

所沢から移設された陸軍施設

1925(大正14)年に発行された地図。所澤飛行場の記載がある(画像:国土地理院)
1925(大正14)年に発行された地図。所澤飛行場の記載がある(画像:国土地理院)

 日本の航空発祥の地は、埼玉県の所沢市とされている。陸軍は兵器としての飛行機に注目し、飛行試験場の場所として所沢を選んだ。

 1910(明治43)年10月から建設が始まり、翌44年の3月までに滑走路などの設備が完成し、同年4月5日に徳川好敏(よしとし)大尉がファルマン機で、日野熊蔵大尉がライト機で初飛行を実施した。

 ただし、徳川・日野両大尉は前年の12月19日に代々木練兵場でファルマン機による日本初飛行に成功しているので、この日を「日本初飛行の日」と呼んでいる。

 この後、航空部隊は強化されていき、各地に飛行場がつくられていく。こうしたなかで、1922(大正11)年には立川飛行場がつくられ、飛行第5大隊が常駐するようになる。

 そして、昭和に入ると、立川飛行場の周辺に陸軍航空技術研究所、立川陸軍航空廠などがつくられるが、これはもともと所沢にあった施設を移設したものだった。

 陸軍の航空部は三宅坂(みやけざか)に本部を設けていたが、所沢との交通の便は悪かった。一方、立川は市ヶ谷から乗り換えなしで行くことができた。さらに所沢飛行場の空域が狭かったこともあり、陸軍の航空機に関するさまざまな施設は次第に立川周辺に集積していくことになる。

 これにともなって航空機会社も立川周辺に工場を構えることになった。1930(昭和5)年の立川飛行機立川工場を皮切りに、1938年には中島飛行機武蔵製作所と日立航空機立川工場が、1939年には昭和飛行機工業東京工場がつくられた。

 航空機の生産には多くの部品が必要であり、各種の部品は下請け企業がつくっていたが、受注・納品の都合から発注工場の近くにあったほうが便利であり、各工場の周辺に下請け工場が集まるようになった。

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