B-29爆撃機が執拗に「多摩エリア」を狙いつくした理由
B-29爆撃機は1944年11月、最初の攻撃対象として現在の東京都武蔵野市を選んだ。その後も多摩地域を執拗(しつよう)な空襲で襲った。いったいなぜか。
急増する多摩の人口

こうした航空機産業の発展にともなって、多摩の人口も増えてくる。
1926(昭和元)年におよそ35万人だった多摩の人口は、1935年には40万人となり、1940年には53万人と、この時期に急速に伸びている。
1929年と1937年の多摩の工場数と従業員数を比べると、工場数は624から883(42%増)に、従業員数は1万293人から2万4328人(136%増)と、昭和恐慌を挟んだ時期にも関わらず大きく伸びていることがわかる。
それまでの多摩は八王子を中心とした織物業がさかんな地域で、1928年まで多摩の工業生産額の90%ほどを織物が占めていたが、1935年あたりから機械器具工業などが伸び始め、1941年には織物は20%程度を占めるにすぎなくなった。
多摩で最初に市制を実現させたのは八王子だが、1940年には立川も市制に移行した。立川が市制に移行した1940年には三鷹と国分寺と保谷が、翌年には昭和が町制に移行しており、この時期の多摩(特に北多摩)の人口増加の勢いがうかがえる。
しかし、冒頭にも述べたように、この飛行場と航空機産業の集積は多摩が空襲のターゲットになることにもつながった。
特に中島飛行機武蔵製作所は米国から空襲の第1目標に選ばれ、1944年11月24日を皮切りに集中的な空襲を受ける。当初は、荒天などもありなかなか戦果があがらなかったが、1945年4月7日と12日の空襲によって、中島飛行機武蔵製作所は壊滅的被害を受けることになった。