「集団就職」「就職列車」とは何だったのか? 地方の“口減らし”とその実態、昭和ノスタルジーに浸る令和時代に問い直す
かつて都会を目指す若者たちを運ぶために設定された就職列車。今では姿を消したが、一体どのようなものだったのか。集団就職とともに振り返る。
“春の風物詩”になった就職列車
こうして1950年代後半には、全国各地で行政の手配で専用臨時就職列車が運行されるようになる。その数が増加したことで、管理は全国規模へと移行していった。
1962(昭和37)年、当時の労働省職業安定局は日本交通公社に対して、輸送あっせんを依頼したいという申し入れを行っている。これを受けて、日本交通公社は職業安定局、国鉄と協力し、全国的に就職列車の計画輸送を行うこととなった。これが、一般によくイメージされる就職列車の確立である。
この制度では、就職列車で就職先に移動する若者に対して、学割などと同じ2割引き運賃が適用されることとなった。国鉄が指定した列車、すなわち
「計画輸送」
として設定された列車に乗車すれば割引が適用されたのである。
こうして“春の風物詩”として走るようになった就職列車だが、『あゝ上野駅』のヒットもあり、若者は皆鉄道で都会へと向かったイメージが濃厚だ。しかし、実際の移動方法はさまざまだった。
四国や、九州、島しょ部などでは「就職船」も使われていた。愛媛県では松山から大阪まで船便を利用するルートも。また奄美諸島では、東京へ直接向かう船便を使うルートや、鹿児島から鉄道を利用するルートもあった。