「集団就職」「就職列車」とは何だったのか? 地方の“口減らし”とその実態、昭和ノスタルジーに浸る令和時代に問い直す
かつて都会を目指す若者たちを運ぶために設定された就職列車。今では姿を消したが、一体どのようなものだったのか。集団就職とともに振り返る。
集団という形態が採られたワケ
では、なぜこのような形態が採られたのだろうか。そこには、就職する若者たちを保護する目的があった。
戦前、戦後ともに言葉巧みに就職先をあっせんするとして、劣悪な環境での低賃金労働に送り込む悪徳な求人が横行していた。そこで、行政が介入して安心できる就職先を確保するとともに、雇用者側も安心できる方法として集団就職の形態が確立していった。なにより、送り出し側としては、
「効率よく余剰人口を排出したい」
という意図もあった。
こうして、集団就職は高度成長期になると最盛期を迎える。工業化が進んだ地域や都市部では所得も増え、高卒者以上が当たり前になっていた。結果、町工場や個人商店では十分に人手を確保できない状況が生まれることとなった。
他方、地方では依然として貧乏で子だくさんという状況が続いていた。既に戦後復興も一段落した1959(昭和34)年の雑誌記事には、集団就職で都会に向かった青森県の少年について次のような記述がある。
「62歳の父親は公衆浴場のカマ炊き、三人の兄たちは印刷工、日雇人夫、材木店手伝い、二人の姉はパン工場の女工と、うどん屋の女店員、S君の下には4歳と当歳の妹がいる文字通り貧乏人の子だくさんという一家です」(『週刊読売』1959年4月26日号)
集団就職で都会に出ることは経済的に自立する方法であり、口減らしの意味もあった。都会にあっては、貧しい地方で暮らす若者であれば
「文句もいわずに働く」
という期待もあり、求人は絶えることがなかった。