「集団就職」「就職列車」とは何だったのか? 地方の“口減らし”とその実態、昭和ノスタルジーに浸る令和時代に問い直す
かつて都会を目指す若者たちを運ぶために設定された就職列車。今では姿を消したが、一体どのようなものだったのか。集団就職とともに振り返る。
集団就職の実態

多くの若者が集団就職で都会を目指したが、うまく行くものばかりではなかった。『週刊明星』1959年4月26日号に掲載された「東京の人はウソつきだ 集団就職に夢破れた少年たち」では、群馬県から就職するもすぐに逃げ帰った少年を取材している。その就職先の環境は、このようなものだった。
「おかずは、朝はミソシルと菜っぱの塩づけ。同じ菜っぱがミソシルの中にも浮かんでいる。昼はカブの塩づけとつくだ煮。夕方はつけものだけということが多く、小山君らがいた二週間のあいだに魚がついたのは三回きりだ。それに、農家の出が多い少年たちにとっては、ドンブリにもられた外米のニオイがとくにこたえた。(中略)時間外手当がつかない。(中略)こまるのは180名の従業員に対して、便所がひとつしかないことだ。(中略)5500円の月給から食費(2500円)、積立金(1000円)、作業服代、風呂代をさっぴかれると1000円ぐらいしか残らない」
今考えるととんでもない労働環境だが、会社は取材に訪れた記者に対して堂々と
「中小企業では、労働基準法といっても、その通りやっていたのでは経営がなりたたない」
「それほど過酷な労働をさせているわけではないし、まったく理由がわからない」
と発言している。
この記事では、送り出した学校の教師にも取材を行っているが、教師も若者の辛抱の足らなさを嘆いたり、受け入れ先をひとごとのように批判したりすることに終始している。これは、集団就職の実態が、経済発展の恩恵が遅れている地方の口減らしであり、就職列車がその効率的な手段であったことを示している。
いかに昭和という時代が美化されようとも、就職列車が
「高度成長期の犠牲」
となった無数の人たちを運んだ手段であるという事実は消えないのである。