わずか15年で廃線 愛知県「桃花台線」が遺した都市計画という名の“無理難題”、そして落日のニュータウン
平成に開通、平成に廃止
都市計画は大抵、想定通りに進まない。計画人口をもとに交通機関を整備しても、住民が利用するとは限らないのだ。結果、せっかくの交通機関が廃止されてしまうこともある。
その代表例として知られるのが、開業からわずか15年で廃止された愛知県小牧市の自動案内軌条式旅客輸送システム・桃花台線(とうかだいせん。ピーチライナー)だ。運行していたのは1991(平成3)年3月から2006年10月までで、小牧駅から桃花台東駅までを結んでいた。全国唯一の
「平成時代に開通し、廃止された」
路線である。この失敗事例は、これからも続く都市計画を考える上で貴重な教訓となっている。
構想が進んだのは1960年代後半
桃花台線が走っていた小牧市東部の丘陵地にある「桃花台ニュータウン」は、経済成長にともなう人口増を前提に建設が計画された。1955(昭和30)年に市制を施行した小牧市は発足当時、人口約3200人の純然たる農村地帯だった。
都市化が始まったのは、1959年、中京圏に甚大な被害をもたらした伊勢湾台風以降だった。台風からの復興事業が始まると、当時の神戸眞(かんべ しん)市長は財政基盤確立を目的に、臨海部にあった工場誘致を開始する。このとき、増える人口の受け皿として構想されたのが、当時は「篠岡台」と呼ばれ山林しかなかった地域での宅地開発だった。
計画を公表した1962年1月の『広報小牧』では
「誘致工場の集団社宅街を造成し、緑の木々に囲まれた新しい形の近代的な文化住宅団地の建設をもくろみ鋭意立案中」
とつづっている。
その後、新たな街の名前は「桃花台」と決まった。同年3月の『広報小牧』によれば
・総面積:約4万4500平方m
・住宅:1000戸
の計画とされている。この時点で3万2000人程度だった小牧市は、工業化による人口増で10万都市実現を目標としていた(現在の小牧市の人口は約14万9000人)。
構想が実現に向かったのは1960年代後半になってからだった。経済成長を迎えた愛知県が、名古屋大都市圏整備の一貫として小牧市の構想を取り入れたのである。愛知県は1971年、計画人口を約5万4000人として桃花台の開発事業を始めている。計画はオイルショックの影響で立ち遅れ、入居が始まったのは1980年からだった。