ドイツ国防軍の名将「ロンメル」 彼はなぜ第2次大戦「北アフリカの戦い」に負けたのか
北アフリカの戦い

一般にロジスティクスの歴史とは、軍隊が次第に現地調達への依存状態から脱却する過程(プロセス)を示唆する。
だが、イスラエルの歴史家マーチン・ファン・クレフェルトの主著『増補新版 補給戦――ヴァレンシュタインからパットンまでのロジスティクスの歴史』の第6章「ロンメルは名将だったか」では、第2次世界大戦の北アフリカ戦線を事例に、その過程が決して直線的なものではなかった事実が論じられている。
実際、21世紀の今日では、あたかもその流れが逆戻りしているかのようにも思われる。
1939年9月の第2次世界大戦開戦時の北アフリカでは、イタリアが植民地としてリビアおよびエチオピアを領有する一方、エジプトはイギリスの事実上の植民地であった。また、同地のモロッコやアルジェリアなどフランスの植民地は、同国のドイツへの降伏の後、ヴィシー政権の統治下にあった。
そうした中、仮にイタリアがエジプト攻略に成功すれば、石油が豊富なアラビア半島へ進出する手掛かりが得られる。一方、ヨーロッパ東方戦線で「バルバロッサ」作戦――ソ連に対する戦い(1941年6月~)――を実施中のドイツ軍の一部は、コーカサス地方を目標に進撃しており、これが予定以上に進めば、北からアラビア半島に到達することも可能となる。
その結果、イギリス本国とインドとの連絡線を切断できるかもしれない、とイタリアとドイツは期待する一方、イギリスはこれを絶対に阻止しなければならなかった。そしてこうした状況の下、北アフリカの戦いが展開されていくのである。
北アフリカでの戦いにおいては、イギリス軍がエジプトにかなり大規模な基地を有していた一方で、ドイツ軍は最も基本的な必要物資でさえ、完全に海上輸送に依存していた。実にエルウィン・ロンメル指揮下の「ドイツ=アフリカ軍団(DAK)」が消費する物資は全て、イタリアから地中海を経由して船舶で運ばれてきたのである。
だが、クレフェルトによれば、これがロンメルの抱えた問題の本質ではなかった。実は、ロンメルを悩ませた2つの主たる問題とは、港湾の能力不足とアフリカ内陸地域での輸送距離の長さであった。そうしてみると、地中海の「護送船団の戦い」の重要性を説く従来の歴史解釈は極めて誇張されたものなのであろう。おそらく1941年末の時期を除けば、地中海での海と空の戦いが北アフリカの戦況に大きな影響を及ぼすことなどなかったのである。