ドイツ国防軍の名将「ロンメル」 彼はなぜ第2次大戦「北アフリカの戦い」に負けたのか

キーワード :
, ,
「砂漠の狐」と呼ばれたドイツ軍のロンメルが、第2次世界大戦「北アフリカの戦い」で敗れた理由とロジスティクスの関係を探る。

ロンメルのロジスティクス軽視

ドレスデンにあるドイツ連邦軍軍事史博物館(画像:写真AC)
ドレスデンにあるドイツ連邦軍軍事史博物館(画像:写真AC)

 最終的にロンメルは北アフリカ戦線で敗北するが、それはアドルフ・ヒトラーの戦争指導の責任ではなく、やはりロジスティクスに対するロンメルの配慮の欠如が原因であった。

 結局、北アフリカ戦線での戦いに関しては、何度にもわたってロンメルがヒトラーの命令に抵抗し、自らの基地から適当な距離――兵站(へいたん)支援限界――を超えて攻撃を試みた事実こそ、問題視されるべきなのである。

 おそらく彼は、ロジスティクスという、いわば裏方の目立たない任務にはあまり関心を示していなかったのであろう。また、そもそもロジスティクスという領域は、ロンメルが得意とした「大胆さ」や彼の決断力だけでは解決し得ない問題を多々内包しているのである。

 その意味では、ロンメルが正式な上級参謀教育を受けた経験がなかったとの事実は、少なくとも北アフリカ戦線では、負の方向に作用したと言える。もちろん、第2次世界大戦を通じた戦車の運用で示された彼の能力には、この事実が正の方向に作用したのであろう。

 後にロンメルは、1942年7~11月のエル・アラメインの戦いでの敗北の原因について、イギリスの空軍力の圧倒的な優位性とドイツ軍の悲惨な補給状況を挙げたとされるが、少なくとも後者の責任の一端はロンメル自身にある。

 繰り返すが、北アフリカのドイツ軍が、極めて貧弱なロジスティクスの線(ライン)の最先端で戦うことを余儀なくされたことは事実である。

 なるほど、かつて多くの歴史家は、リビアからエジプト、パレスチナ、シリア、イラクを経てペルシャ湾にまで侵攻するとのロンメルの計画をヒトラーやドイツ軍中央が支援していれば、彼はイギリスとの戦いに勝利できた可能性があると主張していた。事実、ロンメルは自らが残した覚書の中で、ドイツ軍中央がロジスティクスをめぐる問題を解決することに失敗したとの批判を繰り返している。

 だが、近年ではこうした歴史解釈は否定されており、逆にヒトラーが地中海を最優先の戦場と考えなかったことは妥当であったとの評価が主流である。実際、ロンメルの批判に対して、例えば当時のローマ駐在のドイツ大使館付武官は、この問題はそもそも最初から解決困難であったと反論している。

地域の状況とロジスティクス

 また、クレフェルトはやはり『補給戦』の第6章で、ドイツ軍の糧食がアフリカの暑さに不向きであったと指摘する。なぜなら、脂肪分が多過ぎたからである。その結果、ドイツ軍人が北アフリカに2年以上滞在すれば必ず健康を損なうと考えられていた。

 さらにクレフェルトによれば、ドイツ製エンジン、とりわけオートバイのエンジンは加熱しやすく、故障しやすかった。これは戦車のエンジンも同様で、その寿命は予想以上に短かったという。加えて、ドイツ軍とイタリア軍の兵器は規格が異なっていたため、保守や修理には困難が伴った。

 ロンメルは1941年春、ヒトラーやドイツ軍中央の明確な命令に抵抗して、北アフリカ戦線でイギリス軍に対する攻撃を開始している。ドイツ軍はイギリス軍をリビア西部から追い出し、逆にトブルクを包囲した。そこでは、当初の攻撃ではトブルクからイギリス軍を追い出すことはできなかったものの、最終的にはこれに成功、エジプト国境を越えたサルームという地点まで進撃した。

 だがクレフェルトは、「このロンメルの進撃は、戦術的には輝かしいものであったが、戦略的には大失敗であった」との厳しい評価を下している。

 なぜなら、「決定的な勝利を獲得できなかった一方、ただでさえ伸び切った補給線(ライン)に、さらに700マイルを加えることになったからである。OKH(ドイツ陸軍総司令部:筆者注)が予測したように、この負担はあまりにも大きく、ロンメルの後方部隊はこれに耐えることができなかった」からである。

全てのコメントを見る