ドイツ国防軍の名将「ロンメル」 彼はなぜ第2次大戦「北アフリカの戦い」に負けたのか
ロジスティクスの線の脆弱性

前述したように、クレフェルトは『補給戦』で、ロンメルが直面した問題は必ずしもイタリア本土から届く補給物資の不足に起因するわけではなく、北アフリカでの非常に長いロジスティクスの線(ライン)が原因であったと強く主張する。例えば、貴重な燃料の10%が、残りの90%を運搬するためだけに必要とされたという。
確かに、1941年11月ごろから開始されたイギリス軍の攻撃の結果、北アフリカ沿岸部のロジスティクスの線(ライン)は安全ではなくなった。イギリス軍の航空機および装甲車両は、ドイツ軍のトラック輸送部隊に多大な損害を与え、実際にその輸送能力は半減したのである。また、輸送部隊の移動は夜間に限定されることになった。
こうした厳しい状況を受けてロンメルは、ついに退却を命じたのであるが、皮肉なことには、この退却によってドイツ軍の補給距離が大きく縮まり、状況は好転することになる。一方、ヒトラーは周囲の多数の反対意見にもかかわらず、潜水艦(Uボート)の地中海派遣を決定し、さらには、ヨーロッパ東方戦線から部隊を引き抜いて地中海のドイツ空軍を増強する方針を決定した。
こうした中、1941年12月、日本軍による真珠湾奇襲攻撃を契機としてアメリカが第2次世界大戦に参戦した。そして、これとほぼ同じ時期にドイツ軍は、ヨーロッパ東方戦線での進撃を阻止され、ソ連軍の反撃が始まった。
ここでドイツに残された選択肢とは、ヨーロッパ西方戦線の連合国軍がその資源を集中させる前に、総力を集結して東方戦線のソ連軍を撃破することであった。そのため、こうした状況の下で北アフリカでの新たな作戦を実施することには、大きな疑問が生じる。
だが、新たな作戦を実施すれば北アフリカのドイツ軍のロジスティクスは崩壊するとの警告にもかかわらず、1942年、ロンメルは攻撃を強行し、1月下旬には再びベンガジを占領したのである。
北アフリカの戦いとは何だったのか
クレフェルトは、北アフリカの戦い全般の教訓として、以下の興味深い点を挙げている。
1.ロンメルのロジスティクスをめぐる困難は、常に北アフリカの港湾能力が限られていたことから生じた
2.いわゆる「護送船団の戦い」を重視する見方は誇張されている。おそらく1941年11~12月を除けば、地中海中部での海対空の戦いが、北アフリカの戦況に決定的な影響を与えたことは一度もなかった
3.マルタ島を占領しないとの1942年のドイツ軍の決断は、北アフリカでの戦いの結果に対しては重要ではなかった。それ以上に重要なことは、トブルク港があまりにも小規模であり、またエジプトからのイギリス空軍の攻撃に対して、抵抗できなかったことであった
4.アフリカ内陸を走らなければならない距離の長さは決定的であった。この距離は、ソ連戦線を含めてこれまでドイツ軍がヨーロッパで経験したものをはるかに超えており、さらには、トラック輸送部隊の数が少数にとどまっていた。確かに、1942年には多少の沿岸海上輸送が実施されたが、イギリス空軍が制空権を保持していたため、効果は限定的であった
かつて多くの歴史家は、1942年夏から秋にかけてのロンメルの敗北は、イタリアからの燃料が得られなかった、あるいは輸送船が多数撃沈されたことなどが原因であると主張していたが、クレフェルトの見解を踏まえれば、こうした議論にはあまり根拠がないように思われる。
結局のところ、北アフリカには、限定された地域を守るために戦力を派遣するとのヒトラーの当初の決定は妥当であった。そして彼がロンメルを十分に支援しなかったとの議論も、著しく妥当性に欠けるように思われる。事実、ロンメルには北アフリカで維持可能な最大限の戦力が与えられ、時にはそれ以上が与えられていたのである。
そのため、仮に北アフリカ沿岸でのロジスティクスの線(ライン)の確保が困難であったとすれば、その責任の大半はロンメルが負うべきである。いわゆる「過剰拡大(オーバーストレッチ)」であり、これは常に戦いの歴史の中で指揮官を悩ませた問題である。
後年、ロンメルは以下のように語ったとされるが、これもにわかには信じ難い。すなわち、「軍隊が戦闘の緊張に耐えるためには、最初に不可欠の条件として武器、石油、弾薬を十分に蓄えることである。実際のところ撃ち合いが始まる前に、戦闘は兵站将校によって行われ決定されるのである。いかなる勇敢な兵士といえども、銃なしでは何事も成し得ず、銃は十分な弾薬なしには何事もできない。だが機動戦においては、車両とそれを動かす石油が十分になければ、銃も弾薬も大して役には立たない。保守修繕も、敵のそれに対して量的にも質的にも同等でなければならない」。