官営圧力に屈せず! 信濃・甲斐の民間運送業、誇り高き「中馬」をご存じか【連載】江戸モビリティーズのまなざし(5)
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伝馬制の横やりでたびたび争議が起きる

順風満帆に見える中馬だが、「中馬争議」といわれる裁判に何度も巻き込まれている。官営の運輸機関だった伝馬制と、たびたびあつれきが起きたためである。
伝馬制は、宿場町にあった問屋場(といやば)という施設が管轄していた。問屋場の経営者は、年寄(としより)と呼ばれる地元の有力者たちで、いわば官営の役人といっていい。宿場町を通過する「御用荷物」(年貢米など)は通常、問屋場を通すのが法制化されていた。
だが、個人経営の中馬は「商い荷物」という「御用荷物」以外のものを運んでおり、問屋場を通さない。「通し馬」だから手数料も払わない。
そこで問屋場は、官営の既得権を振りかざし、中馬を伝馬制の指揮下に置こうとした。「商い荷物」を取り扱えば利益もアップすると、もくろんだのだ。
中馬は反発して幕府に訴え、伊那街道や中山道の各地で訴訟が起きた。
1626(寛永3)年、673年、1694(元禄7)年、1759(宝暦9)年など、複数にわたって争議が起きている。そのうちのひとつの記録には、
「七色の中馬荷物に限り商人荷物(伝馬)同様中継。それ以外は通し馬勝手たるべし」
という裁定が出たとある。
七色とは、茶・紙・櫃(ひつ。製の大きな箱)苧麻(ちょま。植物を原料として布)・たばこなどの7品目のこと。それらについては伝馬制が扱うが、他は中馬が自由に運んで良いとされたのである。
問屋場が荷物を「かすめ取るのは不届」との一文もある。事実上、中馬の勝利だった。
半面、1764(明和元)には、のちに「明和裁許状」といわれる判決が下る。
・松本・塩尻・飯田の間では馬1頭につき四文~六文を問屋に収める
・飯田から先は払う必要なし
・今後、馬の数を増やさない
という内容だった。
この時、信濃の馬は678か村に1万8614頭いたというから、中馬は総額でかなりの金額を問屋場に収めたことになる。同じような裁定が、甲斐でも下されたという。
中馬は不服だったろう。問屋場の目を盗んでカネを払わずに営業する者が出ても不思議ではない。結局、小競り合いは明治時代まで延々と続いた。
官と民が、運送料を巡って長く対立していたというのは興味深い。モビリティ産業に従事する人は、知っておくべき歴史ではないだろうか。
中馬は江戸幕府が倒れ、時代が変わっても存続していたが、1887(明治20)年頃の道路改修に伴い、運送馬車が出現すると、次第に衰退していった。
1911年、中央本線が諏訪や木曽福島まで開通し、輸送が鉄道にシフトすると、各駅からのフィーダー輸送(2~3次輸送)に利用される程度になり、やがて姿を消していった。
●参考文献
・商品流通と駄賃稼ぎ(同成社)
・江戸時代に於ける南信濃(信濃郷土出版社)
・愛知県史 第2巻(愛知県編)
・「塩の道」とくに「古代製塩法」について(大林淳男 2004.豊橋創造大学短期大学部講演要旨)