官営圧力に屈せず! 信濃・甲斐の民間運送業、誇り高き「中馬」をご存じか【連載】江戸モビリティーズのまなざし(5)

キーワード :
, , , ,
江戸時代の都市における経済活動と移動(モビリティ)に焦点を当て、新しい視点からそのダイナミクスを考察する。

内陸部に塩を運ぶ

「信州仲馬稼道筋宿村繪圖」には北は善光寺、東は倉賀野(群馬県高崎市)、南は岡崎・吉田など太平洋岸、西は信濃と飛騨・濃州(岐阜県)との国境まで、中馬が活動した街道および宿場街が記されている。(画像:『江戸時代に於ける南信濃』信濃郷土出版社/国立国会図書館)
「信州仲馬稼道筋宿村繪圖」には北は善光寺、東は倉賀野(群馬県高崎市)、南は岡崎・吉田など太平洋岸、西は信濃と飛騨・濃州(岐阜県)との国境まで、中馬が活動した街道および宿場街が記されている。(画像:『江戸時代に於ける南信濃』信濃郷土出版社/国立国会図書館)

 中馬が最も繁栄したのは、甲斐では甲府(山梨県甲府市)、信濃では飯田(長野県飯田市)である。ここでは飯田の例を取り上げてみていこう。

 飯田は塩尻(長野県塩尻市)と三河の岡崎(静岡県岡崎市)を結ぶ伊那街道(三州街道)にある。「出馬千匹入馬千匹」という言葉があった。1日に1000頭の馬が出て行く。すると、すぐに1000頭やって来る――それほど中馬の中心地だった。

 伊那街道は、現在の国道153号に相当する。中山道(国道17号)の脇往還(東海道など主要な街道につながる脇道)であり、五街道に比べると関所などの取り締まりも少なく、民間人には使い勝手のいい道だった。このことが、中馬の発展につながったという見方もある。今も伊那街道を、「中馬の道」と親しみを込めて呼ぶ人は少なくない。

 活動範囲は、飯田から松本を経て北は善光寺・松代、南は三河の吉田(豊橋市)・岡崎、尾張(愛知県)の名古屋、東は諏訪を経て甲斐の甲府と、上田へ経て上野(群馬県)の高崎までだった。信濃・三河・尾張・甲斐・上野にまたがる広域だった。

 積み荷は、下り(信濃から各地)が米・大豆・小豆・アワ・ヒエ・ソバ・酒・串柿(1本の長い串に干し柿を並べて刺したもの)・菜種(油の原料となる種子)・油かす・たばこ・紙・茶・竹輪(おけを作るのに使用する金具)など。

 届け先に荷物を渡すと、上り(各地から信濃)では魚・フノリなどの海産物の他、塩・綿・砂糖・金物・雪踏(せった)・傘・線香・ロウソクなどの日用品などを積んで帰り、甲斐と信濃の各地に配送する。

 戻ってくる時の荷物で特に重要だったのは、塩である。海に面していない信濃にとって、塩の輸送は最も大切だった。内陸地は塩が足りないと、即座に住民に健康被害を及ぼしかねなかったからだ。

 塩は吉田・岡崎・名古屋などで仕入れ、飯田まで運ばれた。伊那街道が別名「塩の道」といわれるのは、こうした由来がある。

 なお、当時の信濃は日本海側からも塩を運んでおり、北から来た塩と、南の太平洋側から届いた塩が合流する地点が塩尻だった。塩尻の地名は「塩の道の終着 = 尻」からきているとの説がある。

全てのコメントを見る