杉並区で初の女性区長 争点だった区内「道路拡幅計画」の行方どうなる? 大切なのは利便性か、街のプライドか

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現在、杉並区は西荻窪駅と青梅街道を結ぶ「北銀座通り」の拡幅を進めている。これらの整備で、果たして「杉並らしさ」は失われないのか。

大震災でリセットされた生活基盤

現在の西荻窪駅周辺の様子。左は1909(明治42)年測図、右は1929(昭和4)年発行の地図。駅北西部に住宅地が増えている(画像:国土地理院、時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕)
現在の西荻窪駅周辺の様子。左は1909(明治42)年測図、右は1929(昭和4)年発行の地図。駅北西部に住宅地が増えている(画像:国土地理院、時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕)

 しかし、関東大震災により店舗や町工場が倒壊してしまったこともあり、それまでの生活基盤はリセットされた。これが引き金となり、郊外に住居を構え都心に通勤するといったライフスタイルが少しずつ切り替わっていくことを促した。

 とはいえ、ライフラインが整備されていなければ郊外に家を構えても暮らしづらい。杉並区の前身である井荻町の町長だった内田秀五郎は、関東大震災が起きる前から郊外化の波を予見していた。そのため、早くから耕地整理を推し進めていた。

 現代において、耕地整理は聞き慣れない用語だろう。耕地整理を簡単に説明すれば、区画整理の旧バージョンの事業といった感じになるだろうか。

 耕地整理では、それぞれが所有していた農地を再編統合すると同時に人が通行できるような道路や農地に必要な水路を整備した。耕地整理が着手されるまで、個人が所有する農地はいびつに変形していることは珍しくなく、あちこちに分散していることは常態化していた。

 こうした農地は、農作業の効率が悪くなる。そこで、政府は1899(明治32)年に耕地整理法を制定。同法によって、農地の統合・再編を奨励した。

 統合・再編によって農作業の効率化を図るといっても、農地の統合・再編作業は容易ではない。場合によっては、自分が耕した農地を他者に譲り渡すケースも出てくる。代替地を得られるといっても、代替地の土壌がどのような状態なのかもわからない。家には不安も強く、政府の思惑通りに耕地整理は進まなかった。

 内田は、きたる都市化の波を予見。早い時期から耕地整理の必要を認識し、住民たちを粘り強く説得した。内田の人徳や強力なリーダーシップもあり、杉並の耕地整理は進んでいった。こうして一帯は農村から郊外住宅地として発展。人口も急増する。

 内田は耕地整理を進めると同時に、ライフラインの整備にも着手した。それまでの中央線は中野~荻窪~吉祥寺と駅が並び、現在の高円寺駅・阿佐ケ谷駅・西荻窪駅は存在しない。内田が駅の誘致を働きかけた成果から、1922年には中央線の新駅として西荻窪駅の誘致が実現。鉄道省(現・JR東日本)は、地元住民から陳情を受ける形で阿佐ケ谷駅・高円寺駅も同時開業させた。

 西荻窪駅の特筆すべき点は、駅の開設と並行して駅北西に1万2000坪という広大な住宅地を造成したことにある。この住宅地に居住した住民が西荻窪駅の利用者になり、それが駅周辺の繁華街化にもつながった。こうした経緯を経て、杉並区の中央線各駅は独自の発展を遂げていく。

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