「郷に入っては郷に従え」 インバウンドの迷惑行為に“郷に従え論”は全く意味がないワケ――77%が迷惑と感じる異常事態、日本の静寂は守れるか
正論が通用しない構造的な理由

「郷に入っては郷に従え」という言葉は、その土地の習慣を尊重すべきだという道徳的な教えとして理解しやすい。旅行先での振る舞いの指針としても納得できる。「When in Rome, do as the Romans do(ローマにいるときは、ローマ人のするようにせよ)」という言葉もある。
しかし、今回の問題を考えると、この精神論だけでインバウンドの行動を変えようとしても、ほとんど効果は期待できない。行動の前提が異なる人々にとって、この言葉に従う
・メリット
・動機
がそもそも存在しないからだ。
背景には、情報とコストの構造的な問題がある。短期間の滞在者にとって、明文化されていない日本の暗黙のルールをすべて把握し、身につけるのは膨大な労力になる。公共の場での沈黙や荷物への配慮は、旅行の利便性を損なう負担に映り、結果として今の振る舞いを続けるほうが合理的だと判断してしまうのである。
加えて、日本のルールの多くは、周囲の空気を読みながら行動を決める仕組みに依存している。シンガポールのような厳しい罰則や、欧州のように物理的に行動を制約する環境がなければ、日本独特の空気感を読み解けない旅行者は、注意書きすら無視してしまう。
自己の利得と直結しない無償の配慮は、文化圏の異なる人々にとって優先度が低い。その結果、長年日本人が自発的な配慮で守ってきた秩序は、急増するインバウンドの負荷に耐えられなくなっている。
この問題をもっと深く考えると、日本と諸外国では守るべきルールの「見え方」に大きな違いがあることがわかる。秩序を保つ方法は大きくふたつある。法律や罰金のように外から強制する方法と、人々が自分の心のなかで「こうすべきだ」と思って守る方法だ。日本の公共空間は、後者への依存度が極めて高い。
日本人の多くは、子どもの頃から学校や家庭で「他人に迷惑をかけない」という価値観を繰り返し教え込まれる。この過程で、公共の場での振る舞いは誰かに見張られなくても、自分で自分を律するようになる。電車内では、常に
「周りからどう見られるか」
を意識して、自分の行動を調整している。
ところが、この心のなかで守るルールは、同じ環境で育った人にしか通用しない。文字で書かれたルールではないため、外からやってくる人には認識すらされない。インバウンドにとって、車内での会話音量や荷物の置き方はルール違反ではなく、そもそも気にするべきこととして頭に浮かばないのだ。