港湾貨物が行き交う「瀬戸内海」 知られざる伝統の物流ヒストリーをひも解く【連載】江戸モビリティーズのまなざし(3)
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日本海を南下、瀬戸内海に至る西廻りルート

瀬戸内海物流の歴史の概略は、次のようになる。あくまで概略なので、細かい部分は省略している。
・京都の朝廷への貢ぎ物を船で運んだ平安時代
・平清盛をはじめ平家が日宋貿易を振興した平安時代後期
・戦乱に水軍が活躍した戦国時代
・廻船(かいせん)が盛んとなり商業振興に寄与した江戸時代
この中で現代の海運の基礎となったのは、新しい航路の開発などがあった江戸時代だ。江戸時代前期(1603~1700年頃)の船には、
・御用船
・商用船
があった。
御用船は藩が所有している軍船だが、軍船といっても太平の時代なので戦争に使用されたわけではない。西日本の諸藩が参勤交代などに使用した船であり、「御座船(ござぶね)」などと呼ばれた。
一方の商用船は、物資を運ぶ船である。荷物は主に年貢米で、船の所有・運営は民間業者だった。諸藩が農村から徴収した米を、大坂や江戸に運ぶ役目を請け負っていた。
また、当時は藩とは別に幕府の直轄領が各地にあった。これを天領(てんりょう)という。天領は遠隔地にもあったため、収穫した大量の米を大坂・江戸に運ぶには船が適していた。
そこで、安全な航路が必要となった。航路の選択を任されたのは豪商の河村瑞賢(かわむら・ずいけん)だ。瑞賢は寛文年間の1670(寛文10)年頃、奥州(東北地方)の天領から江戸に至る新しい航路を、苦心してふたつ開く。
ひとつは荒浜(現在の宮城県亘理郡)まで河川を使って米を運搬し、そこから大きな船に積み換えて太平洋を南下する「東廻(まわ)り」。
もうひとつは、酒田(同山形県酒田市)まで河川を使用し、日本海を南下して長門の下関(同山口県下関市)を経て、瀬戸内海から大坂に至る。さらに紀伊半島をぐるりと回って江戸に向かう。これが「西廻り」だ――西廻りは約3120kmの輸送路だった。
西廻りは遠回りである。だが、東廻りは津軽海峡や房総沖といった危険エリアを通過しなければならない。特に房総沖は強風と潮の流れに左右されやすく海難事故のリスクがあり、到着の遅延も予想された。このため、西廻りが定着していくのである。ここに至って民間委託をやめ、幕府が直接運行を行うようになる。
そして、西廻りに使われた船は、摂津・備前・讃岐といった瀬戸内海沿岸で造られた船だった。瀬戸内の経験と造船技術は、幕府から見て当時最も信頼に値するものだったのである。