東京郊外の雑木林が「国立大学の街」に豹変した根本理由──西武グループ創業者の学園都市構想を考える

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中央線沿線の計画都市・国立。大学誘致をめぐる堤康次郎の“50万坪の賭け”と、大泉と国立の両面作戦。その舞台裏には、鉄道開発と不動産分譲が交錯する都市成長の原点がある。駅名が市名となった稀有な街の形成史をひも解く。

50万坪開発に賭けた夢

1920年ごろの国立駅周辺の様子(画像:国土地理院)
1920年ごろの国立駅周辺の様子(画像:国土地理院)

 当初、石神井の仮校舎がそのまま東京商科大学の新キャンパスとなる予定だった。というのも、当時は「大泉村」と呼ばれたその地域で、堤康次郎による学園都市構想が関東大震災前から進められていたからだ。

 震災を機に東京の人口が郊外へ移動し始めると、構想は具体化する。堤は地元の名士や地主を箱根温泉に招き、自らの計画を熱く語った。農村地帯が学園都市に生まれ変わるという構想に共鳴した地元住民は、積極的に協力した。

 堤は現在の練馬区大泉学園から埼玉県新座市にかけて、約50万坪の土地を買収。大規模な造成工事を開始した。傾斜の多い地形を整えるため、敷地内にはトロッコ用の線路が張り巡らされ、土砂の運搬が続けられた。

 鉄道インフラも整備された。武蔵野鉄道(現・西武池袋線)には三角屋根の洋風駅舎を備えた大泉駅(現・大泉学園駅)を新設。完成した街は「大泉学園町」と名付けられ、大々的な広告展開が行われた。新聞やラジオに加え、チンドン屋が街を練り歩き、当時の人気女優・水谷八重子(1905~1979年)による歌謡ショーまで開かれた。

 しかし、肝心の大学は最終的に移転しなかった。その理由はいまなお研究対象とされているが、有力な説としては造成地が駅から1km以上離れていたこと、そして郊外移転を検討する層の多くが中央線沿線を好んだことが挙げられている。

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