東京郊外の雑木林が「国立大学の街」に豹変した根本理由──西武グループ創業者の学園都市構想を考える

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中央線沿線の計画都市・国立。大学誘致をめぐる堤康次郎の“50万坪の賭け”と、大泉と国立の両面作戦。その舞台裏には、鉄道開発と不動産分譲が交錯する都市成長の原点がある。駅名が市名となった稀有な街の形成史をひも解く。

学園都市構想の起点

1930年ごろの国立駅周辺の様子(画像:国土地理院)
1930年ごろの国立駅周辺の様子(画像:国土地理院)

 国立市が国立町として町制を施行したのは1951(昭和26)年のことだ。国立駅は1926年に開業していたが、自治体ができたのはそれより後だった。駅名が先に広まってから自治体名になった、極めて珍しい事例である。

 前述のとおり、国立市はかつて谷保村と呼ばれ、国立駅周辺は武蔵野の雑木林が広がる「ヤマ」と呼ばれる地域だった。この地域の発展は、西武グループの源流企業である箱根土地による開発・分譲がきっかけとなった。

 計画の発端は、東京商科大学(現・一橋大学)の初代学長・佐野善作と箱根土地の創業者・堤康次郎によるものだ。もともと東京商科大学は千代田区一ツ橋にあった。現在の如水会館が旧校地の一部にあたる。1923(大正12)年の

「関東大震災」

で校舎が大きな被害を受け、授業の継続が困難になった。一時は幡ヶ谷の東京高等学校の校舎を間借りして授業を再開し、その後1924年に石神井の運動場用地に新校舎を建てて移転した(練馬区石神井稲荷に記念碑がある)。ただし、この校舎は仮校舎に過ぎなかった。

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