なぜ東京・三軒茶屋は「没個性な街」を回避できたのか? 27階タワーと元闇市が共存する奇跡の再開発、その住民参加の全貌とは

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東京都世田谷区・三軒茶屋は、急増した人口と再開発の波の中で、住民反発を経て独自の共存モデルを築いた。27階建てのキャロットタワーと昭和の商店街が調和し、SUUMO住みたい街ランキングで常に上位50位以内を維持。住民主導の対話を重視したまちづくりが、画一化に抗う都市再開発の新たな指標となっている。

12事業で進む住民主導型

三軒茶屋(画像:写真AC)
三軒茶屋(画像:写真AC)

 この付帯意見後も、協働が順調に進んだわけではない。1989(平成元)年に入っても、ビルの高さを巡り区や準備組合と住民の対立は続いた。

 大きな変化が訪れたのは、審議会で指摘された「きめ細かな会合」の対応だ。準備組合は体育館で数百人規模の説明会では議論がまとまらないと判断し、1989年以降は少人数による定例的な説明と協議を開始。問題解決への姿勢を示した。

 この話し合いを経て、都市計画は住民の意見を反映して変化した。たとえば、キャロットタワーの27階建て決定もその一例である。

 同時期、世田谷区は区全体で「住民主導型まちづくり」を政策として推進していた。同年には「まちづくりリレーイベント」を開催し、区内各所で12の住民参加型事業を展開。清掃工場煙突のデザインコンペや太子堂地区の住宅設計セミナー、公共トイレのアイデア募集など、住民が都市課題を考え提案する場が次々に設けられた。

 三軒茶屋でも、再開発ビル内に予定された文化施設の利用を巡り、住民による演劇ワークショップを実施。住民自身が施設の活用法を考える実験が行われた。

 つまり、三軒茶屋の住民参加は、激しい対立の末に区の政策と住民の切実な要求が合致した結果である。対立から始まった関係は、粘り強い対話を通じて協働に転じ、三軒茶屋の再開発は新たなまちづくり手法を生み出すに至った。

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