なぜ東京・三軒茶屋は「没個性な街」を回避できたのか? 27階タワーと元闇市が共存する奇跡の再開発、その住民参加の全貌とは
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住民反発が露呈した説明不足問題

郵便局跡地を核とする再開発、すなわち「三軒茶屋・太子堂四丁目地区第一種市街地再開発事業」の準備が本格化したのは1980年代初頭である。1981(昭和56)年には基本構想が策定され、1986年には地区全体の整備計画調査が実施。1988年8月、都市計画決定が正式に下された。
だが、事態が動き始めた1988年、再開発計画は大きな転機を迎える。内容が初めて公にされると、地域住民から強い反発が起きた。
同年2月の住民説明会で、再開発の詳細が明らかにされた。高層ビルの建設や商店街の一部取り壊しといった内容に対し、
「再開発により30階のビルができることにより、この街と街の住民にどのような利益があるのか明確に示してほしい」
「地区全体の整備を考えた場合三軒茶屋1丁目の計画がないのはおかしい」
といった疑問が噴出。住民による反対運動が組織され始めた。5月の説明会でも意見は平行線をたどり、事業の先行きには不透明感が漂った。流れが変わったのは6月の世田谷区都市計画審議会だった。ここで反対運動側の陳述が認められ、
「大企業奉仕の業務ビルが地元住民の利益につながるとは思えない」
といった意見が表明された。再開された議論では、計画の説明不足が相次いで指摘された。論点は大きく三つに整理できる。
●住民への説明不足
行政と住民の認識に乖離があった。商店街関係者からも「話は聞いていたが中身は知らされていない」との声が上がった。ビルの高さや風害対策といった具体的な疑問に対する回答も欠けていた。
●手続き面での問題
都市計画決定と施設計画が混同され、理解が進まなかった。公告縦覧から決定までの期間が短すぎたという指摘もあった。説明会も従来型の大規模形式では限界があり、「きめ細かい会合が必要」との意見が出た。
●住民参加の姿勢
反対運動は開発そのものへの否定ではなく、手法や進め方への問題提起だった。住民は地域の未来を真剣に考え、対案を出し合っていた。そうした動きがまちづくりを前向きに動かすとする評価も出始めていた。
特筆すべきは、審議会委員が住民の反対を「課題」ではなく、「参加型まちづくりへの機会」と捉えた点である。これは当時としては革新的な発想だった。最終的に、
「市街地再開発事業の事業化に当たっては、引き続き住民への周知に努めるとともに、周辺環境に十分配慮した施設計画を行うよう指導されたい。なお、今後、事業者も周辺の住民と十分協議されるよう要望する」
とする付帯意見が採択された。法的拘束力こそなかったが、この意見が区の制度設計に影響を与え、住民参加型の都市開発の出発点となった。