なぜ東京・三軒茶屋は「没個性な街」を回避できたのか? 27階タワーと元闇市が共存する奇跡の再開発、その住民参加の全貌とは

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東京都世田谷区・三軒茶屋は、急増した人口と再開発の波の中で、住民反発を経て独自の共存モデルを築いた。27階建てのキャロットタワーと昭和の商店街が調和し、SUUMO住みたい街ランキングで常に上位50位以内を維持。住民主導の対話を重視したまちづくりが、画一化に抗う都市再開発の新たな指標となっている。

246号と玉電の都市改造

三軒茶屋(画像:写真AC)
三軒茶屋(画像:写真AC)

 三軒茶屋の起源は、江戸時代中期にさかのぼる。現在の国道246号にあたる大山道と、世田谷通りにあたる登戸道が交差する交通の要衝に位置していた。道中の休憩地として、信楽・角屋・田中屋の三軒の茶屋が並び、これが地名の由来となったとされる。

 三軒茶屋という呼称は、文化・文政期(1804~1830年)にはすでに一般的なものとなっていた。この地は、かつて太子堂村、下馬引沢村、中馬引沢村などの一部で構成されていた。江戸近郊の農村地帯として機能しながら、大山詣での参詣客を迎える宿場的な役割も果たしていた。

 街道文化と農村的な風景が交差する土地として、三軒茶屋は地域的な基盤を築いていった。現在のように三軒茶屋が正式な町名として成立するのは、1932(昭和7)年の世田谷区発足後のことである。

 三軒茶屋が現在のような街へと変貌する契機は、1923(大正12)年の関東大震災にある。震災後の復興過程で、多くの被災者が郊外である世田谷区に移住した。世田谷区の人口は、1920年の3万9952人から1940年には約7倍の28万1804人へと急増している。急速な人口流入によって宅地化が進んだが、都市計画の整備は追いつかず、三軒茶屋では計画性を欠いた市街地が形成された。

 戦後には闇市が生まれ、地元密着型の商業地としてにぎわった。しかし1960年代に入り、街の風景は一変する。

・国道246号の拡幅:1964年
・東急玉川線の廃止:1969年
・首都高速の高架建設:1971年
・新玉川線の開業:1977年

と、都市インフラの再整備が相次いだ。

 交通の利便性が向上し、渋谷や二子玉川の商業集積が進むなかで、三軒茶屋の集客力は相対的に低下。かつてのにぎわいは徐々に失われていった。1970年代初頭には再開発の構想も持ち上がったが、実現には至らなかった。

 転機は1970年代後半に訪れる。現在キャロットタワーが建つ地にあった世田谷郵便局が移転した。この跡地が再開発の起爆剤となる。商店会は郵政省に跡地の払い下げを要望。区による取得を強く働きかけた。行政側も三軒茶屋の拠点整備を喫緊の課題と捉え、用地取得に積極的に動いた。

 最終的に世田谷区は郵便局跡地の取得に成功し、都市整備公社とともに施工区域の40%超を占める大規模地権者となる。こうして、長らく足踏みしていた再開発の基盤が一気に整うこととなった。

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