東京の都心になぜ「1丁目が存在しない町」があるのか──住居表示の合理化が壊した町の誇り、いまも残る地名のねじれとは

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東京都心に点在する「1丁目がない町名」の謎は、住居表示制度導入時の住民と行政の複雑な攻防の産物である。1960年代以降、合理化と地域アイデンティティの衝突から一部地区では住居表示が部分的にしか実施されず、住所体系の不整合が郵便・行政サービスに影響を及ぼしている。近年では旧町名復活の動きも進み、住所は単なるコードから「記憶と誇りを繋ぐ地域の象徴」へと変化しつつある。

千代田区で進まぬ町名統合

神田司町(画像:(C)Google)
神田司町(画像:(C)Google)

 江戸時代から続く歴史を持つ神田地区では、明治以降も町名が区割り単位で細かく入り組んでいた。昭和期に入り、関東大震災(1923〈大正12〉年)からの復興が進むと、町名の大規模整理が行われた。例えば、神田司町2丁目は1935(昭和10)年、佐柄木町・新銀町・雉子町・関口町・三河町3丁目・4丁目を統合して誕生した。

 これでも整理は進んだが、なお地番ベースのままだったため、番地が飛び飛びとなり、入り組んだ非合理的な町割りが残された。郵便配達や行政事務に支障をきたす要因となっていた。こうした背景を受けて、1962年に国は「住居表示に関する法律」を公布。不合理な区割りや町名を整理する方針を打ち出した。

 住居表示の基本ルールは明快だ。町名は道路を境界として街区単位で設定し、すべての建物に

「○丁目○番○号」

を順序通りに割り当てる。千代田区では、1962年12月に住居表示審議会を設置。1966年頃までに完了させる計画を立てた。

 だが、この方針に対する住民の反応は一様ではなかった。『新編千代田区史 区政史編』によれば、外神田1~6丁目では住民の多くが賛成し、協力的だった。一方、神田三崎町では町会をあげて強く反発。区が提案した新町名「西神田」への改称を拒否した。署名活動や陳情書の提出など、激しい反対運動が展開された(のちに、三崎町のまま住居表示を実施)。

 同史には、1965年4月から1971年7月までの間に寄せられた30通以上の意見書や陳情書、町内会の決議書が掲載されている。その多くが

「現町名を残せ」
「町割りを変えるな」

という内容だった。すなわち、住居表示は不要とする声が地域には根強く存在していたことがうかがえる。当時の地域紙『千代田週報』1964年8月1日付には、各町の具体的な意見が掲載されている。以下に一部を抜粋する。

・多町二丁目:神田駅北口通りを町境にするという、区試案には反対する。
・鍛冶町三丁目:現状にこだわらず、理想的な町割りにして欲しい。
・鎌倉町:修正案を実現させ、初志を貫くよう最善の努力をすることにしている。
・司町二丁目:区画整理後のごたごたがなくなって町会が一つにまとまり、よそからもまとまりのよい町だといわれるようになったのは戦後のことだ。それほどの町会を分けられてしまうのを残念がる空気が町内には非常に強い。

これらの意見から見えてくるのは、制度の理念と地域の現実との深い乖離である。住民にとって住所は単なる記号ではない。生活実感や歴史的な記憶と密接に結びついており、合理化の論理だけでは切り取れない。また、『千代田週報』1964年1月11日付には、住民が主張する住居表示の問題点が挙げられている。

・これまでの町を全然無視したもの
・いつ撤廃されるかわからない都電通りを重くみ、これで区割りしようとしたもの
・区出張所区域も、小学校通学区域も違うところを一つにしようとしたもの

こうした懸念は、単に町名を残したいという感情論ではなかった。実際の生活や行政サービスとの整合性を欠くという、具体的かつ実利的な問題提起だった。同時に、より根深い要素として、町名に対する強い愛着と誇りも背景にあった。

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