東京の都心になぜ「1丁目が存在しない町」があるのか──住居表示の合理化が壊した町の誇り、いまも残る地名のねじれとは

キーワード :
東京都心に点在する「1丁目がない町名」の謎は、住居表示制度導入時の住民と行政の複雑な攻防の産物である。1960年代以降、合理化と地域アイデンティティの衝突から一部地区では住居表示が部分的にしか実施されず、住所体系の不整合が郵便・行政サービスに影響を及ぼしている。近年では旧町名復活の動きも進み、住所は単なるコードから「記憶と誇りを繋ぐ地域の象徴」へと変化しつつある。

合意形成に7年かかった町会

神田鍛冶町(画像:(C)Google)
神田鍛冶町(画像:(C)Google)

 神田地区では、住居表示制度の導入に際し、特に複雑な対応が求められた。背景には実利的な問題だけでなく、町割りや町名といった地域アイデンティティの根幹に関わる要素が絡んでいたからだ。『新編千代田区史 区政史編』は、当時の住民の声をこう記録している。

「住居表示には応じるものの、町名で一致できないので応じられない」。

こうした地域も実際に存在した。

 神田は江戸時代からの歴史を持つ土地である。それゆえ、町名は単なる行政区分ではなく、象徴的意味合いを帯びていた。多くの地域では、住居表示に応じる代わりに「神田」の名称を町名に残すことを求めた。

 一方、区の住居表示審議会は「神田」の多用に否定的だった。提案された新町名の多くは、「万世橋」「須田町」「秋葉」など、あえて神田を用いないものだった。唯一の例外が「東神田」である(『千代田週報』1964年4月4日付)。

 しかし、住民側は「神田」の維持に強くこだわった。現在の外神田1~6丁目は、当初は「万世1~6丁目」とすることで町会内の意見をまとめたが、最終的にはこれを撤回。外神田に落ち着いた。この動きからは、「隣の町会が神田を名乗るなら、こちらも」といった空気が漂っていたと推測できる。『千代田週報』1964年10月24日付は、こう記している。

「外神田と東神田を除く中心部はその地域内の複雑な事情、あるいは内側との関係などから予定期日をはるかに経過しながら、いまなお実施する段階になっていない」

この背景には、町会内部での意見対立もあったとみられる。記録には穏やかなやり取りしか残されていないが、実際には現状維持を望む住民と、再編・合併による合理化を受け入れる住民との間で、表に出ない対立が続いていた可能性が高い。

 こうした混乱は、千代田区に限らず全国各地で見られた。多くの自治体では、最終的に議会の議決を経て行政が強行的に実施するケースもあった。だが、当時の千代田区長・遠山景光氏はその方式を取らなかった。『千代田週報』1965年8月29日付で、こう述べている。

「そこに住み、そこで営業している多くの人々の賛成をえない案を強行しようなどとは絶対に考えていない。強行するように、という如何なる指示があっても断乎これを拒否する強い決意でいる」

その結果、千代田区では合意が得られた町から順次実施という方式が採られた。神田司町や多町、鍛冶町では、1丁目は話し合いがまとまり住居表示で消滅したが、2丁目以降は折り合いがつかず、旧町名のまま残された。

 1980(昭和55)年、紀尾井町で住居表示を実施したのを最後に、区役所内では町の平和を奪ってまで進める必要はないという意見が大勢を占めた(『新編千代田区史 区政史編』)。その後、制度の実施作業は事実上ストップした。

こうして現在に至るまで、神田地区には「2丁目から始まる町」や「1丁目だけが消えた町」といった、奇妙な町名が残されることになった。

全てのコメントを見る