営団地下鉄の民営化は、なぜ「幸福な民営化」と呼ばれたのか?【短期連載】東京メトロ、破られた沈黙(1)

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東京メトロの前身は、戦時中に設立された「帝都高速度交通営団」だ。1980年代に財政問題が深刻化する中、民営化が検討され、1990年代には特殊法人改革が進んでいた。しかし、長期債務や出資者の影響により、民営化の進展は鈍化していた。2001年に改革基本法が制定され、民営化への道が開かれると、利用者サービスの向上が大きな課題となった。特に「トイレットペーパーを常備する」という小さな改善が、大きな変化を象徴する事例となり、「幸福な民営化」と称賛される一方で、株式上場には至らなかった。

財政依存の特殊状況

丸の内都庁舎(画像:東京都)
丸の内都庁舎(画像:東京都)

 1986(昭和61)年に運輸省は最初の民営化案を示した。この案は次の内容から成り立っている。

・5年以内に株式会社にする。
・その後、第三者割当増資を実施して民間資本を導入する。
・営団の新線建設が完了した時点で、国と東京都の株式を放出する。

 当時、交通営団の資本金は541億円で、

・国鉄:54%
・東京都:46%

を所有していた。計画では、まず国が国鉄所有分を引き受け、その後第三者割当増資で民間資本を導入する。最終的に新線建設が完了した後に国と東京都の株式を売却し、完全民営化を目指すというものだった。

 しかし、交通営団の建設費用による累積赤字が民営化のハードルとなっていたため、金融機関や私鉄などへの第三者割当増資を経て経営の安定化を図り、その後完全民営化する形が模索された。

 しかし、このプランにはいくつかの課題があった。交通営団の事業は財政投融資に大きく依存していた。1988年度では、総事業費838億円のうち8割超の680億円が財政投融資対象工事だった。つまり、営団は地下鉄の運営と同時に

「公的資金で新線建設を行う」

特殊な立場にあった。民営化によってこの財政投融資の枠組みから外れる場合、資金調達の仕組みを根本から変える必要があった。また、長期債務の存在が株式上場の障害になるという懸念も浮上していた。

 これらの課題を踏まえて、1987年の臨時行政改革推進審議会は、5年以内に特殊会社に改組し、その後完全民営化するという段階的な方針を示した。この方針は閣議決定で追認されたが、民営化の動きは停滞してしまった。停滞の原因は複合的で、長期債務に加え、1992(平成4)年から1995年の赤字計上が影響した。さらに、民営化後の経営方針に対する懸念も大きかった。

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