日本最大の商業地「日本橋」 江戸の物流拠点としても大きな役割を果たしていた!【連載】江戸モビリティーズのまなざし(20)

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江戸時代の都市における経済活動と移動(モビリティ)に焦点を当て、新しい視点からそのダイナミクスを考察する。

日本橋魚河岸の商業活動

『江戸名所図会 日本橋魚市』には、到着した鮪を荷揚げする仲買人と、その場で鮪を解体する魚屋の姿がある(画像:国立国会図書館)
『江戸名所図会 日本橋魚市』には、到着した鮪を荷揚げする仲買人と、その場で鮪を解体する魚屋の姿がある(画像:国立国会図書館)

「4」「5」は、『江戸名所図会 日本橋魚市』に、詳しく描かれている。

 小買商人が押送船で運んできた鮪(まぐろ)を荷揚げし、仲買人が帳簿を開いている。仲買人から鮪を買った魚屋が、市場で魚をさばいて売る。これを「板舟」(いたぶね)といった。板の上で魚をおろし、その場で販売したため、この名が付いた。板舟は、現代でいえば解体ショーだ。日本は江戸時代から、こうした販売手法を採用していたのである。

 ちなみに鮪は、江戸時代はマイナーな魚だった。鮪は相模湾や房総沖を泳ぐ回遊魚で、捕獲できたとしても、日本橋に届けるには時間を要した。しかも、赤身であるため足が早い(腐るのが早い)。江戸庶民の口に入るには、不向きだったのである。

 だが文化期(1804~1818)に入ると、醤油に漬け込んで保存する「ヅケ」が編み出され、次第に市民権を得るようになっていく。しかし、それでもトロは下等とされた。ヅケにしても劣化しやすかったためである。トロが高級品として愛されるようになるのは、冷凍技術が確立される現代まで待たなければならなかった。

 日本橋魚河岸は、朝の商いだけで1000両のカネが動くといわれた一大市場だった。江戸時代の貨幣価値は時代によって異なるが、便宜上1両を約10万円としても、約1億円。1日だけで巨額の経済効果があった。

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