日本最大の商業地「日本橋」 江戸の物流拠点としても大きな役割を果たしていた!【連載】江戸モビリティーズのまなざし(20)

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江戸時代の都市における経済活動と移動(モビリティ)に焦点を当て、新しい視点からそのダイナミクスを考察する。

拡大する魚河岸に伴い物流も複雑化

『日本橋魚市繁栄図』歌川国安画。簡易的な「板舟」の上で魚をさばいている(画像:国立国会図書館)
『日本橋魚市繁栄図』歌川国安画。簡易的な「板舟」の上で魚をさばいている(画像:国立国会図書館)

 また、日本橋といえば魚河岸が有名だ。「河岸(かし)」とは物資を荷揚げする地点・施設を指し、現在でいう物流センターである。魚を扱う場所は魚河岸、米は米河岸、青果は大根河岸などと呼ばれた。日本橋の河岸は魚が中心であり、橋の北東にあった。現在も橋の北詰に記念碑が立っている。

 日本橋魚河岸は、徳川家康が江戸に入府した1590(天正18)年には開かれていたと考えられている。家康は江戸に来る際、摂津国佃村と大和田(現在の大阪府西淀区佃と同大和田)の漁民を招き江戸湾の漁業権を与え、近海の生鮮魚介類の販売を認めた。これが魚河岸の元祖である。

 元和期(1615~1624)には増え続ける江戸の人口に対応するため、市場をさらに拡大し、それに伴って流通も複雑になった。

1.まず魚問屋が、江戸湾周辺の小買商人に前もって仕入れ金を渡す。
2.小買商人たちはそのカネを、漁民たちに賃金や漁業の運転資金として渡す。
3.漁民たちは魚を捕り小買商人に渡す。
4.小買商人は押送船(おしおくりぶね)という小型の輸送船で日本橋まで運び、仲買人に渡す。
5.そして、仲買が魚屋などの小売店に売った。

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