ANAの生みの親は「朝日新聞」だった? 日本を代表する航空会社と大新聞社の知られざる蜜月関係とは
日本の航空業界をリードするANAの誕生には、意外にも日本を代表するマスメディアのひとつである朝日新聞が深く関わっていた。なぜなのか。その歴史をひもといてみよう。
ANAの悲劇と転機

余談だが、ANAの誕生は、日本の民間航空の歴史に金字塔を打ち立てたのだが、発足後の2年間に2度の大きな悲劇が同社を襲った。
ひとつ目は、同年8月に同社のDC-3機が静岡県伊豆半島の下田市沖で墜落し、乗客・乗員30人以上が死亡する事故が発生した。ふたつ目は、2年後の1960(昭和35)年に中野氏が搭乗する自社の小型機が北海道帯広市付近で墜落し、中野氏は帰らぬ人になっている。当時社長の美土路氏は、後任に中野氏と決めていただけに、そのダメージは極めて大きく、この非業の死を
「戦死」
と呼ぶ関係者も少なくない。
なお、美土路氏は1961年にANAの社長を退いた後、会長、相談役となる。だが、古巣の朝日では、終戦直後から続く、オーナー家の村山一族と社員との労使対立が紛糾し、一触即発の状況に陥っていた。
このため、労使双方が信頼を寄せる美土路氏が内紛の収拾役として、1964年に、朝日の社長に就任(~1967年)した。OBとはいえ、エアラインの社長経験者が大新聞の社長に返り咲くなど前代未聞である。
もちろん現在、ANAと朝日の間には大株主など資本関係は一切ない。だが、こうした事例を見ても、ANAと朝日の関係は“特別”と見てもいいだろう。