ANAの生みの親は「朝日新聞」だった? 日本を代表する航空会社と大新聞社の知られざる蜜月関係とは

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日本の航空業界をリードするANAの誕生には、意外にも日本を代表するマスメディアのひとつである朝日新聞が深く関わっていた。なぜなのか。その歴史をひもといてみよう。

ヘリコプターの挑戦と成長

1956年8月9日。八丈小島のマレー糸状虫症対策としてジクロロジフェニルトリクロロエタン(DDT)を散布する日ペリのベル47。
1956年8月9日。八丈小島のマレー糸状虫症対策としてジクロロジフェニルトリクロロエタン(DDT)を散布する日ペリのベル47。

 とはいうものの、日本人にとってヘリは未知の代物で、パイロット養成には苦労したらしい。

 まずは不定期航空運送事業免許を取得し、ヘリによるスロースタートで臨んだ。中野氏のもくろみどおり、水田や森林地帯への農薬・薬品散布を皮切りに、送電線の設置工事や山岳地帯への電源設備搬入、測量に必要な航空写真の撮影、報道機関の取材など、ヘリの需要は徐々に増えていった。

 間もなくして定期航空運送事業免許も取得し、乗客10人前後の小型固定翼機、デハビラント・ダブ機を導入し、東京~大阪で1953(昭和28)年末に貨物輸送を、翌1954年には悲願の旅客輸送にこぎつける。だが、収益の伸び悩みと機材購入など設備投資が重くのしかかり、1957年度に単年度で黒字を達成するまで赤字決算に苦しんだ。

 戦後初の民間エアラインである日ペリと極東航空は、過当競争を起こさないようにとの旧運輸省の判断から、事実上、飛行エリアを定め、大阪を基点に前者は東日本、後者は西日本を守備範囲としていた。

 その結果、飛行機が最も得意とする長距離輸送のメリットを十分に生かせず、航空機の調達・維持費や、地上設備や地上スタッフの人件費といった固定費などがかさむ反面、投資効率が悪くスケールメリットも生かせない状況だった。

 事実、日本航空輸送研究所が母体の極東航空は、機材として水上機を選び、地上滑走路が不要で低コストという優位性を武器に、瀬戸内地域を中心に空路を拡大した。しかし、まだ大阪と四国、中国、九州とを結んでも乗客は少なく、赤字体質から抜け出せずにもがき苦しんでいた。

 こうした事情から、1958年3月1日、両社は合併し、改めて全日本空輸(ANA)が誕生、全国に空路を張り巡らせるエアラインへと進化を遂げる。

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