ANAの生みの親は「朝日新聞」だった? 日本を代表する航空会社と大新聞社の知られざる蜜月関係とは
日本の航空業界をリードするANAの誕生には、意外にも日本を代表するマスメディアのひとつである朝日新聞が深く関わっていた。なぜなのか。その歴史をひもといてみよう。
中野氏の多角的取り組み
第2次大戦に敗れ、連合国軍総司令部(GHQ)の占領下に置かれた日本は、戦力に直結する航空機の開発や保有・運用が厳禁された。
だが、日本の民間航空の復興をめざす中野氏は、航空関係者の失業対策と人材・技術の温存を図り、終戦直後の1945(昭和20)年12月に、民間航空関係者の互助・救済組織「興民社」を立ち上げる。
名前には「民間航空を復興する」という意味が込められているが、GHQが目を光らせるなか、航空・飛行という文言を入れた場合、当局から目を付けられ、お取りつぶしになるのを避ける意味もあった。
中野氏は、朝日時代の上司だった美土路氏を強引に誘い入れ、同社社長に担ぎ上げた。政財官・マスコミ界に顔が利く美土路氏を表看板に、幅広く支援者を募る作戦である。
だが、終戦直後で経済がドン底のなか、民間航空の関係者約100人を救済するための資金稼ぎは困難を極めた。“実行隊長”を自負する中野氏は、なりふり構わずもうかりそうな仕事に飛びついた。
まずは、旧日本軍が使っていたポンコツのトラックや乗用車、各種機械をタダで譲り受け、自前で修理した後、これを元手に貨物輸送やタクシー、建築・土木業を展開した。
また、近郊農家からヤミ米(当時米は政府の統制品で、闇ルートで流通した違法米)を買い付けて、ヤミ市で販売するなど、違法行為も行っていたという。