ANAの生みの親は「朝日新聞」だった? 日本を代表する航空会社と大新聞社の知られざる蜜月関係とは
朝日新聞の挑戦と苦悩
1903(明治36)年にライト兄弟が世界初の動力による有人飛行に成功すると、「飛行機」という次世代モビリティは加速度的に進化していく。
“新しいモノ好き”で有名だった朝日は、飛行機が持つ先進性と迅速性の価値にいち早く気づき、「航空記者」の育成や飛行大会の開催など、飛行機に前のめりとなる。このとき、同社の社会部記者だった人物が美土路氏で、自社の各種飛行イベントを取材するうちに、自らも飛行機の魅力に魅せられ、やがて飛行機事業に積極的に関わっていく。
大正に入ると、朝日は
「航空報国」(航空で国に貢献する)
をモットーとして掲げ、「朝日新聞東西定期航空会」を旗揚げし、郵便・貨物空輸事業に乗り出す。また、東京~ローマ間の訪欧飛行を達成(95日間)するなど、飛行機関連のイベントにも熱心だった。こうした仕掛けは、本業の新聞の販売部数拡大に大きく貢献し、これに辣腕(らつわん)を振るったのが美土路氏だった。
昭和になると、飛行機の戦略的価値を重視した政府は、国策エアライン「日本航空輸送」(後に「大日本航空会社」に改称)を創設し、国有化により航空事業の独占を図った。
この結果、朝日の東西定期航空会を始め、瀬戸内海を中心に水上機で日本初の定期便を開いた「日本航空輸送研究所」(JALとは無関係)、飛行機メーカーの川西機械製作所が立ち上げた、最初から定期便をうたった日本初のエアライン「(川西系)日本航空」(これもJALとは無関係)の3組織は、1939(昭和14)年までに解散・閉鎖を余儀なくされる。
その頃、編集局長に昇進した美土路氏は、飛行機関連の企画を統括する航空部の立ち上げをうかがっていた。美土路氏は、右腕となって計画を強力に押し進められ、航空」に精通した若者を探していた。そして白羽の矢を立てたのが、中野氏だった。