ANAの生みの親は「朝日新聞」だった? 日本を代表する航空会社と大新聞社の知られざる蜜月関係とは
日本の航空業界をリードするANAの誕生には、意外にも日本を代表するマスメディアのひとつである朝日新聞が深く関わっていた。なぜなのか。その歴史をひもといてみよう。
“空飛ぶブルドーザー”の二人三脚

中野氏は法政大学の在学中に、応援部を立ち上げて自ら団長に就任し、並行して日本で最初となる大学航空研究会を法大に創設するなど、アイデア力と突破力は折り紙付きだった。強力な突破力から「空飛ぶブルドーザー」とも呼ばれた。
中野氏をスカウトした美土路氏は、早速航空部を旗揚げし、自ら部長を兼務して中野氏を直属の部下に据えた。
中野氏は大学関係者の間では名の通った人物で、名声を武器に、法政や、早稲田、慶応、明治、専修など、大学の航空クラブを一堂に集め、「日本学生航空連盟」を結成する。学生による飛行機・グライダーの競技会を開き、新聞というメディアを使って啓発・宣伝することで、民間航空の裾野を広げようというのがねらいである。
だが、時代はこうした取り組みを許さなかった。日本は日中戦争、日米開戦と戦争一色で、朝日の航空戦略は休止せざるを得なかった。秘蔵っ子の中野氏は、1942(昭和17)年に挙国一致の掛け声で発足した大日本飛行協会に転職し、常任参与として航空人材の育成に奔走する。
一方の美土路氏は、終戦間際の1945年5月に、朝日の村山長挙(ながたか)社長が発した人事異動に反対して会社を後にする。その後、岡山の実家に戻り、松下村塾を範にして、農耕を行いないながら次代のリーダーを育てる私塾の開設準備に取りかかる。
こうして、朝日がけん引した日本の民間航空の人材やノウハウは、戦局の悪化で雲散霧消の危機に陥ってしまった。