「戦跡巡り」のエンタメ性に宿る危険性、今後の観光体験はどうあるべきか【リレー連載】平和産業としての令和観光論(2)
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- 観光, 旅行, 平和産業としての令和観光論
コロナ禍や世界各地の戦争を乗り越え、観光が平和と国際協力に与える影響を探るリレー連載。異文化理解や対話の促進を通じて、観光は「平和産業」としてどのような役割を果たすべきかを検証する。
戦跡観光の発展
広島に限らず、大規模な戦火にさいなまれた地域でも、これを観光資源として活用する動きは速い。
沖縄で沖縄戦に絡む観光開発が始まったのは1960年代のことだ。1963(昭和38)年、那覇市は首里の第32軍司令部壕を観光資源として開発するための調査を行ったが、内部の崩壊が激しく、開発を断念した。1968年には沖縄観光開発事業団が、再び観光資源とするための調査を行っているが同様の理由で断念している。
その後、沖縄観光開発事業団は保存状態のよかった豊見城(とみぐすく)の海軍壕の修復を行い、観光コースとして組み入れられるようになった。こうして、1972年の復帰まで、沖縄観光ではひめゆりの塔や摩文仁(まぶに)の丘などの建設された慰霊塔と海軍壕を巡る戦跡観光が定番コースとして定着している。
1970年代に入ると住民の証言を収録した『沖縄県史』などが刊行されたこともあり、観光の対象は軍隊を中心とした戦跡から、住民に関連する避難壕やガマ(自然洞窟)などにも広がっている。1975年に沖縄県平和祈念資料館が開館すると、改めて戦跡の価値と保存活用が知られるようになり、戦跡巡りは県内外に広がっている。
こうして、戦跡が歴史的な価値を伝える文化財として認識されるようになった。南風原(はえばる)町が国や県の文化財指定基準にない「沖縄戦に関する遺跡」を追加して、南風原陸軍病院壕を戦争遺跡文化財としたのは、1990(平成2)年のことであった。