四国新幹線「岡山ルート」で4県一致も 人口減少止まらぬ厳しい現実、昭和の“カミソリ後藤田”も「必要ない」と明言していた!
長年足並みが乱れた4県

1973年に整備計画が発表されたにもかかわらず、四国新幹線が実現しなかった最大の理由は、長年にわたる4県の足並みの乱れにある。各県の同床異夢は、本州四国連絡橋(本四連絡橋)のルートをめぐって対立した1960年代にさかのぼる。現在、本州と四国は次の三つのルートで結ばれている。
1.神戸・鳴門ルート(明石海峡大橋、大鳴門橋)
2.児島・坂出ルート(瀬戸大橋)
3.尾道・今治ルート(瀬戸内しまなみ海道)
本州と四国を結ぶルートが三つもあるのは、それぞれのルートで地元が熾烈(しれつ)な競争を繰り広げた結果である。徳島県は兵庫県、神戸市とともに「四国の発展は阪神経済と直結すること」と主張した。香川県は岡山県とともに「中四国一帯の新経済圏をつくる」を主張した。さらに愛媛県は広島県とともに「技術的にもっともやさしいところから架橋を」と訴えた。いずれにせよ、それぞれが橋の恩恵を最大限に受けるルートを主張した。
ルート争奪戦が繰り広げられた1960年代後半、各県は地元選出の国会議員を使って、陳情を繰り返した。各ルートを支持した国会議員はそうそうたる顔ぶれだった。次にその一部を紹介する。
・神戸・鳴門ルート:三木武夫(元首相)、河本敏夫(元副総理)・原健三郎(元衆院議長)
・児島・坂出ルート:大平正芳(元首相)、星島二郎(元衆院議長)、成田知巳(元社会党委員長)
・尾道・今治ルート:灘尾弘吉(元衆院議長)、宮沢喜一(元首相)、越智伊平(元建設相)
いずれも昭和史に名を残す大物政治家である。
それゆえ、熾烈な路線争いは1970(昭和45)年に玉虫色の形で決着し、3路線が同時に着工した。しかし、完成までには長い時間を要し、1970年代の経済不況のため1973年に工事は延期された。その後工事は再開されたが、3路線が完全に完成したのは1999(平成11)年のことだった。