「東京港」「横浜港」はいかに発展したのか? 意外と知らない、日本近代の歴史をひも解く

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かつて港は物流の中心であり、外国への玄関口だった。横浜港と東京港は歴史のなかでどのように発展してきたのか、ご存じか。

横浜に多く居住した欧米人

東京湾のコンテナ埠頭(画像:写真AC)
東京湾のコンテナ埠頭(画像:写真AC)

 航空機が登場するまで、港は「外国への玄関口」だった――。今回紹介する稲吉晃『港町巡礼』(吉田書店)は、その日本各地の港と港町を通じて日本の近代史をたどろうという本である。

 とり上げられているのは、箱館、石巻、横浜、博多、宮津、広島、基隆(台湾)、神戸、長崎、下関、大阪、小名浜、舞鶴、東京、湘南の15の港町。箱館と日本の開国、広島と日清戦争、神戸とアメリカやブラジルへの移民、下関と捕鯨、舞鶴と鎮守府といった具合に、各港町の歴史とともに日本近代史の重要なエピソードが語られている。

 どの章も興味深いが、ここでは第3章の横浜と第14章の東京の部分を紹介し、横浜港と東京港が歴史のなかでどのように発展してきたかを紹介したい。

 日米修好通商条約(1858年)における開港予定地は神奈川であったが、実際に開かれたのは沿岸開運の拠点だった神奈川湊ではなく、そこから5kmほど離れた対岸の横浜村だった。

 外国人と日本人との接触を避け、同時に対外貿易での主導権を握るために、幕府は横浜に波止場などを造成し、神奈川から横浜に通じる道に関所を設けて人の移動を制限した。ちなみに、これが「関内」という地名の由来になっている。

 外国の領事たちは当初の約束と違うと抗議したが、安全上の理由や、神奈川湊に比べて横浜のほうが水深が大きく船舶の入港が容易だったこともあり、多くの外国人が横浜居留地で暮らすようになった。

 1878(明治11)年には欧米人・中国人合わせておよそ2500人にまで増加し、全開港場の欧米人のおよそ

「55%」

が横浜に居住したといわれている。

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