「東京港」「横浜港」はいかに発展したのか? 意外と知らない、日本近代の歴史をひも解く
かつて港は物流の中心であり、外国への玄関口だった。横浜港と東京港は歴史のなかでどのように発展してきたのか、ご存じか。
一種の治外法権だった居留地

江戸時代に結ばれた通商条約は、不平等条約として知られている。
例えば、日本人は条約締結国での行動を制限されていないにもかかわらず、外国人は原則として六つの開港場とひとつの開市場にしか滞在できず、それぞれの周囲およそ40kmしか出歩くことができないなど、必ずしも一方的な不平等では片付けられない面もあった。
こうしたなかで、外国人は居留地においてさまざまな自由を要求し、幕府は日本のルールを守らせようとした。しかし、領事裁判権があったことで、居留地は一種の治外法権の場になっていく。
外国人に日本の行政規則を守らせることの必要性を痛感させた事件が、1877(明治10)~1879年にかけてコレラが日本に持ち込まれたことだった。
日本政府は外国船に対する検疫を準備したが、各国公使の了解が得られず、1878年7月にはコレラのまん延していた香港からやってきたドイツ船のスペリア号が日本側の制止を振り切って横浜に入港・上陸する事件が起きた。
こうした状況に対して、外務卿の井上馨は諸外国に対して行政規則の改正を求めるのではなく、内地開放と引き換えに領事裁判権の撤廃を求める方針を固め、条約改正交渉に乗り出した。