「東京港」「横浜港」はいかに発展したのか? 意外と知らない、日本近代の歴史をひも解く
かつて港は物流の中心であり、外国への玄関口だった。横浜港と東京港は歴史のなかでどのように発展してきたのか、ご存じか。
横浜に影響を与えた井上馨

井上は横浜のあり方にも大きな影響を与えている。実はこの頃、渋沢栄一や田口卯吉らを中心に東京に新たな港をつくるべきだという議論があった。
横浜港での貿易量は増えていたが、埠頭(ふとう)や倉庫などの設備をつくろうとする日本政府に対して、設備が充実することで管理が強まることを嫌がった居留外国人が抵抗していた。
そこで渋沢や田口は貿易の拠点を横浜から東京へと移すことによって、貿易の主導権を握ろうとしたのだ。しかし、この計画は井上が東京をあくまでも政治の中心とし、貿易の拠点として横浜を支持したことから立ち消えになっていく。
井上は日本が文明国だとアピールするために横浜の居留地の整備が必要だと考え、英国人土木技師パーマーを招聘(しょうへい)し、横浜港の整備を進めた。ご存じのように「鹿鳴館(ろくめいかん)外交」と呼ばれた井上の条約改正交渉は失敗に終わるが、横浜は貿易の拠点として揺るぎない地位を得ることになった。
では、現在の東京港はどのようにつくられたのだろうか。東京湾は遠浅で大型船が入れないという問題点があった。そのため、東京に大型船を受け入れるためには東京湾を浚渫(しゅんせつ。水底の土砂などを掘り上げる工事)し、その土砂で埋め立て地を造成し、そこに埠頭をつくるしかなかった。
江戸時代には、江戸城の近くの日本橋や神田といった河川や運河沿いの地域が経済の中心として栄えたが、明治になると、船が入る場所は新たに埋め立てられた月島、日の出、芝浦などの中心地から離れた地域になっていく。