「東京港」「横浜港」はいかに発展したのか? 意外と知らない、日本近代の歴史をひも解く

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かつて港は物流の中心であり、外国への玄関口だった。横浜港と東京港は歴史のなかでどのように発展してきたのか、ご存じか。

東京築港のきっかけは関東大震災

1932(昭和7)年発行の竹芝・日の出周辺地図(画像:国土地理院)
1932(昭和7)年発行の竹芝・日の出周辺地図(画像:国土地理院)

 そんななか、本格的に東京築港が着手されるきっかけになったのが関東大震災(1923年)だった。震災によって鉄道をはじめとする交通機関がまひしたため、東京への救援物資は主に船で運ぶ必要があった。ところが、東京の港湾施設は貧弱で、沖合は救援船で混み合ったという。

 こうした事態を受けて、2000t級の船舶に対応するために1925(大正14)年には現在の日の出埠頭がつくられ、1932(昭和7)年には6000t級船舶が接岸可能な芝浦岸壁が完成し、1934年には竹芝桟橋が完成した。

 一方、横浜港は生糸の積出港として独占的な地位を保っていたが、関東大震災で壊滅的な被害を受けたことで神戸からの生糸の積み出しも増えてくる。さらに世界恐慌によってアメリカ向けの生糸の輸出が激減すると、横浜港の総輸出量も1929年から1931年にかけて半分近くまで落ち込んだ。

 そこで横浜が目指したのは工業化であった。市域を鶴見まで拡張し、そこに芝浦製作所(現在の東芝)、浅野造船所、日産自動車などが進出した。また、東京~横浜間の輸送のネックを解消するために浅野財閥の創設者である浅野総一郎が京浜運河の整備に乗り出していたが、ここに横浜市も加わっていくことになる。

 こうした事業の進捗(しんちょく)とともに東京湾での埋め立て地の造成も進んでいくが、世界恐慌が起こると景気の悪化で埋め立て地の売却が進まなくなってしまう。

 東京市は1880年代から隅田川河口での埋め立てを進めており、1930年には月島4号地(現在の晴海)が完成し、さらに築港工事とともに埋め立て地が増える予定だったが、その使いみちが宙に浮いてしまったのだ。

 そこで、まず計画されたのが現在の晴海トリトンスクエアの一部に新しい市庁舎を建設する案だった。ところが、不便だとの反対運動が起きて挫折する。

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