ポツンと一軒駅「JR岐阜羽島」の謎! 駅前には元自民議員の像&不釣り合いな広い道路 「政治駅」のウワサは結局本当か

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夢の新幹線が開通したにも拘わらず、駅周辺がまったく発展せず「なんでこんなところに駅が」とされるところは多い。その象徴が東海道新幹線の岐阜羽島駅である。

駅前に立つ大野伴睦の銅像

大野伴睦の銅像(画像:写真AC)
大野伴睦の銅像(画像:写真AC)

 この駅を象徴するのが、駅前に夫妻の銅像が立つ大野伴睦(ばんぼく)元衆院議員だ。院外団から自民党副総裁まで上りつめ「政治は義理と人情だ」といった名言を残した大物政治家である。

 東海道新幹線に岐阜羽島駅ができたのは、一般的に、大野の政治力によるものだったと認識されている。事実、開業5年前の1959(昭和34)年に最初に東海道新幹線の中間駅案が提示された時点で岐阜羽島駅は設定されていなかったが、数日後、突如として加えられた。

 しかし、はっきりした証拠がない。岐阜県の県史では、国鉄がもともと県内に待避駅を必要と考えていたことを記し、

「大野の影響力は、国鉄の意向に沿う形で駅を岐阜市から離れた羽島市内としたこと」

としている。ようは、大野が誘致したのではなく、国鉄の意向を実現しただけというわけだ。果たして、大物政治家とはいえ新幹線の駅まで建設させることができるのか。

 大物政治家がいるのに苦労したのが、山陽新幹線の新岩国駅だ。山陽新幹線の建設にあたって、国鉄はひとつの県に駅は三つまでを原則としていた。そして提示されたのは下関・小郡・徳山だった。政治家が影響力を発揮するなら岩国は、最優先で駅ができるはずであった。

 当時の首相は岩国生まれの佐藤栄作。さらに、元首相の岸信介に参院議長の重宗雄三とそうそうたるメンツがそろっていた。それにもかかわらず、彼らは政治力を発揮することはなかった。結局、新岩国駅が決まったのは保守基地建設が決まった後、市をあげて「駅をつくらなければ協力しない」と国鉄に迫ったからだった。

 こうして見ると、いくら大物政治家でも多少の影響力は出せても国家的事業である新幹線の駅誘致までは困難なのではないか。

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