別名「圧死アワー」 昭和30年代の満員電車は想像以上だった! 混雑率300%に悩まされた鉄道マンとモーレツ社員の歴史

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昭和の満員電車は、今では考えられないほどひどいありさまだった。その歴史をたどる。

「時差通勤」を打ち出した国鉄

満員電車(画像:写真AC)
満員電車(画像:写真AC)

 しかし、当時の混雑の原因はそれだけではなかった。乗客もラッシュに慣れていなかったのだ。過去の記事をふりかえってみよう。当時、ラッシュ時のいくつかの駅で、乗客の通路にロープを張って分割していた。

「たしかに通勤者は慣れてしまっているが、客観的に見ると異様な感じがする。災害など起きた非常時における<避難>といったおもむき。しかし毎日<避難>を繰り返されていたのでは通勤者もやりきれない」(『週刊言論』1967年12月27日号)

 ラッシュ時の整列乗車は現在当たり前で、混雑する駅ではコーン標識を使って、乗客の通路を分割している。ところが、高度経済成長期の日本人にはまだその意識は薄かった。いざ電車がホームに入ってくれば、われ先にと電車に乗り込むのが常識だった。そんな乱暴な乗客が過酷なラッシュを助長していた面はあっただろう。

 ラッシュを解消するため、国鉄や私鉄は「時差通勤」を打ち出した。これは当時、輸送量を伸ばせない国鉄と私鉄の

「言い訳」

と見なされていた。

 そもそも、会社や学校が始業時間を柔軟に変えない限り、時差通勤には対応できない。結果、呼びかけに反応した乗客は時差を利用するというより、単に

「早く家を出る」

ことだった。現在、ラッシュを避けて通勤・通学というと、ピークを過ぎた時間帯の利用をイメージするが、高度経済成長期において、他人より遅く出勤するという選択肢はなかった。

 国鉄は1961(昭和36)年、時差通勤を率先して導入したが、午前8時半だったものを10分繰り上げて午前8時20分にしただけだった。ラッシュのピークより10分早く電車に乗られるもくろみだったが、中央線のように遅れが状態化しているなかでは全く機能しなかったのだった。

 そういえば、コロナ以前も「オフピーク通勤」が呼びかけられていたが、受け入れられていたイメージはない。