別名「圧死アワー」 昭和30年代の満員電車は想像以上だった! 混雑率300%に悩まされた鉄道マンとモーレツ社員の歴史

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昭和の満員電車は、今では考えられないほどひどいありさまだった。その歴史をたどる。

冬になるとさらに大変

混雑率の目安(画像:国土交通省)
混雑率の目安(画像:国土交通省)

 またこの頃には、冬の列車が遅れて混雑が加速することも問題になっていた。

 冬になると家を出る時間が遅れて、乗客は一定の時間に集中する。さらに“着ぶくれ”している人も多い。そのため、夏に比べて約2割は乗車人数が減る。それでも無理やり乗ろうとする人が出て、出発が遅れる。結果、遅れや運転間隔調整が発生し、人が余計にホームにたまるという負のスパイラルが続いたのだ。

 少しでも混雑を減らそうと、国鉄は高円寺~国分寺間の各駅に客扱整理員(学生バイトの押し屋)を配置して対応していた。「イチ、二、サン」の号令もろとも、電車に乗客を押し込むのである。今よりも乱暴で、ホスピタリティのかけらもないが、これが現実だった。

 乗客もそれを心得ていて、うまくタイミングをあわせて車内に押し入るのだった。もちろん身動きを取ることなどできない。よって、靴が脱げてなくなるのは日常茶飯事で、もまれているうちにオーバーやコートのボタンどころか、服そのものが脱げてしまうことも頻繁だった。いやはや想像しづらい。

 冬の「着ぶくれラッシュ」がやってくると、押し込みも困難を極めた。オーバーやコートを着込んでいる乗客は行動が遅くなり、押し屋も夏の倍の力をかけないと押せなかった。

 そして電車が駅に到着してドアが開くと、また悲劇(喜劇?)が始まる。ぎゅうぎゅうに詰め込まれた乗客が押し出されてくるのだ。そして人同士だけでなく、ホームの柱に衝突する人も現れたため、けが人が出ないわけがない状況だった。その対策は

「ホームの柱にマットを巻く」

程度だった。

 このラッシュが、後に

・新型車両の増強
・ダイヤの工夫

で改善していったことを考えると、輸送量そのものに問題があったことがわかるのだ。