20年前の大躍進! 単なるアクセス路線だった「こどもの国線」が通勤線に“昇格”したワケ
沿線人口が増加するも……

こどもの国線が開業すると、周辺では住宅・都市整備公団(現・都市再生機構)の手により、区画整理と宅地開発が進められ、人口が増加してゆく。しかし、こどもの国線は
「来園者のアクセス輸送を目的とした路線」
なので、運転時間帯も短く、通勤通学輸送は事実上不可能だった。
例えば、こどもの国の近くに建設された奈良北団地から横浜・渋谷方面へ向かうには、市営バスに乗り、横浜方面は長津田駅、渋谷方面は長津田駅、田奈駅、青葉台駅のいずれかで鉄道に乗り換えなければならず、時間を要してしまう。
1984(昭和59)年に入ると、神奈川県が新百合ヶ丘~緑山~こどもの国~長津田間を結ぶ新交通システム構想を明らかにした。特にこどもの国~長津田間は既存ルートに沿って進むことから、通勤通学の利便性が大幅に向上される。しかし、構想が頓挫してしまう。
1987年に入ると、沿線の自治体から、こどもの国線の増発や中間駅の設置を求める声があがってゆく。それを耳にした細郷道一(さいごうみちかず)横浜市長は1988年5月31日、こどもの国線の通勤線化に向けて関係者に働きかける意向を表明した。
通勤線化が実現した理由

6年後の1994(平成6)年12月19日、横浜市は「ゆめはま2010プラン」の実施計画をまとめ、「こどもの国線の通勤線化実現」を明文化した。それを実現させるには、こどもの国協会の承諾を得なければならない。
横浜市、横浜高速鉄道(横浜市などが出資した第三セクター鉄道)、東急電鉄、こどもの国協会が協議した末、こどもの国線の第3種鉄道事業者を横浜高速鉄道に1億4900万円で譲渡することが決定した。
1997年6月27日に運輸審議会で了承され、こどもの国線は8月1日付で「第2種鉄道事業者は東急電鉄、第3種鉄道事業者は横浜高速鉄道」という新体制で再出発した。これにより、総事業費94億円をかけて、こどもの国線の通勤線化工事が進められた。
おもな内容は、市営バス徳恩寺前停留所付近に行き違い設備を設けた恩田駅の建設、路盤の改良、線路を継ぎ目の少ないロングレール(最長700m)に更新することで騒音の低減を図った。車両も横浜高速鉄道がY000系を3編成6両導入することになった。省エネ車両も相まって、騒音のさらなる低減も期待できる。
こどもの国線の通勤線化は2000年3月29日に開業。運転時間帯の大幅な拡大も相まって、列車の運転本数も3倍に増強された。現在、平日のラッシュ時は約10分間隔、日中は20分間隔で運転されている。