“都営”新宿線なのに、終点が「千葉県」にある根本理由
都営新宿線が千葉県市川市まで延びた背景には、未完に終わった直通計画の痕跡がある。幻となった千葉ニュータウン直結構想と、今も輸送力を支える設備投資の遺産。そのギャップが、路線計画と都市開発の“現在地”を照らし出す。
市川市を救った延伸効果

この路線が開通した一方で、本八幡駅へ向かう路線は地価の高騰により土地買収が難航していた。さらにオイルショック以降、首都圏の人口増加は鈍化し、建設の費用対効果も疑問視されるようになった。そのため千葉県は、北初富~小室間が開通する前年の1978(昭和53)年に計画を早期に凍結した。
千葉県側の計画凍結を受け、東京都側では本八幡駅までの延伸に疑問の声もあった。だが、篠崎駅(1986年開業)から本八幡駅までの延伸は混雑緩和に効果があると判断され、工事は続行された。
実際に、駅がある市川市にとっては大きな効果をもたらした。都営新宿線はJRや他路線との乗換駅が多い路線だ。接続が強化されたことで、市川市のみならず周辺地域も含めて都心へのアクセスが向上した。こうした点からも、千葉県側の計画凍結を乗り越えて建設を進めた東京都の判断は正しかったといえる。その後、本八幡駅より先の地域では鉄道空白地帯の解消を求める声が続き、路線建設が模索された。
1992(平成4)年には改めて本八幡~新鎌ヶ谷間の建設を千葉県、市川市、鎌ケ谷市の出資による第三セクターで進める方針が決まり、「北千葉線促進検討委員会」が設置された。しかし少子化の進行により沿線人口の増加が見込めず、この計画も実現しなかった。