「絶海の孤島」だったお台場が、大人気観光地に変貌した根本理由

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お台場は1996年の都市博中止後も年間数百万人の観光客を集め、多様な交通網が支える独自の発展を遂げた。行政計画の頓挫が自由な街づくりを促し、観光と居住が共存する稀有な都市空間を形成している。

「世界都市博中止」が招いた計画漂流

お台場(画像:写真AC)
お台場(画像:写真AC)

 東京都港区の臨海部にあるお台場は、現在では観光名所として知られるようになった。週末になると多くの人が訪れ、海浜公園には釣りをする人や観光客の姿が絶えない。しかし、この街はもともと順調に発展したわけではない。開発の途中で方向性を失い、計画の失敗と逆風を受けながらも、独自の形で変化してきた都市空間である。

 お台場への交通手段は多様である。鉄道では、東京臨海高速鉄道りんかい線と新交通システムのゆりかもめが利用できる。バス路線や水上バスも都心とお台場を結んでいる。りんかい線は埼京線と直通運転を行い、新宿や池袋方面からのアクセスを確保している。ゆりかもめは新橋と豊洲を結び、観光的なルートを通って湾岸地域を横断する。さらに、レインボーブリッジを経由する自動車の利用も多く、周辺には大規模な駐車場が整っている。これらのように複数の交通手段が重なり合うことが、お台場の交通の大きな特徴である。

 このお台場が東京臨海副都心として本格的に開発されることになったのは、1989(平成元)年のことだった。当時はバブル経済の最盛期であり、東京湾岸の埋立地を利用して新たなウォーターフロント型の都心を作る国家プロジェクトが始まった。

 1993年にはレインボーブリッジが開通し、臨海部へのアクセスが改善された。そして、1996年に開催が予定されていた「世界都市博覧会」が開発促進のための重要な行事と考えられていた。しかし、

・バブル崩壊による景気の後退
・都政への批判

が強まったことにより、博覧会は中止となった。その時点ですでにオフィスビルや商業施設の建設は始まっており、途中で中止することは困難だった。そのため、将来の見通しが立たないまま施設の開業が続けられることになった。

「このままではお台場はゴーストタウンになる」

といった不安の声が、当時の報道でたびたび取り上げられていた。

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