昭和の自動車教習所、なぜ教官は「ヤンキー」風だったのか? しかも指導は「鬼教官」スタイル! 今じゃありえない? その裏に隠された激動史を辿る
1970~90年代の日本の自動車教習所では、教官の厳しさが社会規範として根付いていた。しかし、当時の「ヤンキー教官」像は、経済成長と交通事故多発の背景から生まれた一方で、その過剰な指導方法に対する反省も見られる。
自動車教習所の拡大と課題

もちろん、質の悪い教官がいたことも事実だ。運転免許所有者数は、1955(昭和30)年には378万241人だったが、1965年には2110万3820人、1975年には3348万2514人に増加した。
一方、自動車教習所は1947年に道路交通取締法・道路交通取締令により「自動車練習所」として制度化され、1960年に道路交通法で指定自動車教習所制度が誕生した。全日本自動車教習所協会連合会の年表によれば、1960年時点で指定自動車教習所は125か所だったが、1985年には1438か所に増加した。
運転免許を取得しようとする人が急増し、それにともない自動車教習所も増えたが、それに対して
「教官の人手不足」
という問題が発生した。『読売新聞』1962年8月22日付朝刊では、茨城県の例を挙げて、教官には普通運転免許を持ち、運転経験が3年以上、大型二種免許を持つことが望ましいとされていた。しかし、この基準では人材確保が困難で、
「車両台数の65~85%程度しか教官がいない」
ことを指摘している。