昭和の自動車教習所、なぜ教官は「ヤンキー」風だったのか? しかも指導は「鬼教官」スタイル! 今じゃありえない? その裏に隠された激動史を辿る

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1970~90年代の日本の自動車教習所では、教官の厳しさが社会規範として根付いていた。しかし、当時の「ヤンキー教官」像は、経済成長と交通事故多発の背景から生まれた一方で、その過剰な指導方法に対する反省も見られる。

「鬼教官」が育てた規律と成長

昭和のヤンキーっぽい地蔵(画像:写真AC)
昭和のヤンキーっぽい地蔵(画像:写真AC)

 教育機関としての自負は、時代とともに重要性を増していった。戦後の高度経済成長期、自動車の普及が急速に進み、交通事故も増加した。こうした社会背景のなかで、教習所の厳格な指導は単なる厳しさではなく、安全な交通社会を作るために必要不可欠なものだと認識されるようになった。

 実際、運転ミスが悲惨な事故を招く可能性があることから、厳しい指導をする教官は少なくなかった。『南日本新聞』2001(平成13)年3月15日付朝刊では、交通事故に対して深い悲痛な思いを抱く元教官の話を紹介している。

「指導する身には事故が悔しい。残された家族は心の病を患い、一家離散を招くこともある。こうした悲劇を知っているだけに、指導や検定試験に臨む態度は厳しい。教習生の親や上司に注意されても「鬼教官」に徹した」

 この時代、鬼教官にしごかれることは、一人前になるための“通過儀礼”だと広く認識されていた。実際、新聞データベースで鬼教官を検索すると、自動車教習所だけでなく、大学や職業系の学校でも厳しい指導者がいたことがわかる。

 例えば、『読売新聞』1995年4月5日号では、学生新聞で鬼教官と名指しされた九州大学の教授が紹介されている。その教授の授業では、

「月曜日から土曜日まで、NHKラジオの英会話講座の聴取を義務づけられる」

とされ、「予習なしではついて行けず、予習を怠ればこっぴどくしかられる」というものだった。

 厳しさと成長を結びつける考え方は、日本の高度成長期の社会規範と深く結びついていた。規律と秩序を重んじる価値観が浸透していた時代、教習所の厳格な教育理念は特異ではなく、当時の社会的文脈に合致したものだった。

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