昭和の自動車教習所、なぜ教官は「ヤンキー」風だったのか? しかも指導は「鬼教官」スタイル! 今じゃありえない? その裏に隠された激動史を辿る
低賃金と教官の不満

教習所の教官は、決して高給取りの職業ではなかった。免許取得を望む人々が常にいるという独占的な立場にありながら、給料が低いという矛盾が教官の不満を生んだ。その不満が教え方に影響し、態度の悪さにつながるというイメージがあった。
これは単なる俗説ではなく、当時の新聞記事でもはっきりと報じられていた事実だった。『読売新聞』1969(昭和44)年8月11日付朝刊では、「車の運転、個人教授はいかが?」というタイトルで、給料の低い教官のなかには
「個人営業で稼ぐ者」
も出てきていると紹介している。記事では教習所の指導が「いささか殿サマ商売」とされ、受講者が「無愛想な指導に憤懣やる方ない」と書かれていた。さらに、こんな一節もあった。
「指導員にしてみれば、疲労と安月給でいたずらに神経をイライラさせられるのだった。生徒にあたって怒鳴ったりし「コトバをつつしめッ」と逆に一かつされた」
昭和は現在よりも市民の血の気が多かった時代だ。教官の態度が悪い一方で、受講者も黙っているだけではなかったようだ。高度経済成長期の日本では、道路インフラの整備が追いつかず、交通マナーも未成熟だった。
「男は度胸、車は勢い」
という価値観が広まり、運転は荒々しいものだという認識が一般的だった。特に1970年には交通事故による死者が1万6765人に達し、過去最悪を記録して社会問題となった。この数字は、急速なモータリゼーションに対し、道路整備や安全教育が追いついていなかった現実を示している。
これらの要因が重なり、1970~1980年代には特に「ヤンキー」的な雰囲気を持つ教官が増えたと考えられる。教習所が荒い運転への対策として厳格な指導を掲げ、教官の粗暴な言動や威圧的な態度が相乗効果を生んだ。
「社会的に認められた厳しさ」
という名目が、時に行き過ぎた指導方法を許容し、それが厳格な指導の文化を強化した。とりわけ、自動車に関わる職業では体格のよさや威厳のある態度が評価されることもあり、それがヤンキー風の外見や口調に繋がったと考えられる。