昭和の自動車教習所、なぜ教官は「ヤンキー」風だったのか? しかも指導は「鬼教官」スタイル! 今じゃありえない? その裏に隠された激動史を辿る

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1970~90年代の日本の自動車教習所では、教官の厳しさが社会規範として根付いていた。しかし、当時の「ヤンキー教官」像は、経済成長と交通事故多発の背景から生まれた一方で、その過剰な指導方法に対する反省も見られる。

教習所の「厳格指導」背後の理想

自動車教習所のクルマ(画像:写真AC)
自動車教習所のクルマ(画像:写真AC)

 厳しい教官が存在した理由のひとつは、厳しい指導があってこそ技術が磨かれるという考え方にある。この考え方は、運転免許取得者が少なかった戦前から続いてきた。

 1935(昭和10)年に池内伸次氏が著した『自動車運転免許証は斯くして得よ』(三省堂)では、教習所(当時は「練習場」と呼ばれていた)選びに関する指針が示されている。

「自動車の初歩に当たっては指導者の教え方がもっとも影響するもので、練習場に於いても、もちろん是を知り、親切丁寧に指導するのを通例とはするが、親切丁寧がやや厳格となるとき練習者はそれが嫌になり自動車の練習を中止するか又は他の練習場に行って終う為に、初めの練習場にては折角教えてかえって客としての練習者を失うことになる。(中略)かかることをよく承知して親切丁寧にして寧ろ悪い癖を矯正するには厳格な指導をなし、一動作ごとに指導してくれるような練習場を選ぶべきである」

要するに、免許取得を目指す人には厳しい指導が必要だが、むしろその厳格な指導を行う教習所を選ぶべきだということだ。適切な運転技術を身につけるためには、厳格な指導が不可欠であるという考え方は、戦前から存在していた。

 この厳格な指導には、教習所側の独自の理念があった。一般の人々にとって教習所は運転技術を学び、免許を取る場所かもしれない。しかし、教習所側はもっと高い理想を持っていた。

 1986年に東京指定自動車教習所協会が発行した『五十年のあゆみ』には、協会の役員たちによる座談会が記録されている。これらの役員は戦前や戦後直後から教習所を経営してきた人物たちだ。その座談会では、次のような発言が残されている。

「ただ免許を取らせるだけではなく、交通社会人の教育機関として、社会に貢献することは大事なことだと思いますね。(中略)指導員は教育者でなければいけないと思うのです。ですから、ハンドルはどう、ブレーキはどう、クランクの通り方はどうこうということだけではなくてですね、教育者とはどうあるべきか、こういうことを教育していくことが大事だと思うのです」

この発言から、教習所の関係者たちが自分たちの施設を単なる技術指導の場ではなく、教育機関として捉えていたことがわかる。教習所は、交通ルールや運転技術を学ぶ場所にとどまらず、

「交通社会の一員としての責任感や意識を育む場」

でもあった。授業料を払っているとはいえ、自動車教習所はサービス業ではなく教育の場であり、師弟関係で厳しく指導するのが当たり前だったのだ。

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