沖縄の「この場所」に、なぜ橋を作らないのか?
八重山諸島を結ぶ架橋構想は1968年に提案され、当時の経済振興計画の一環として地域開発の転換点を迎えた。技術的な挑戦や環境への影響を乗り越える中で、石垣島と西表島を結ぶ橋がもたらす輸送革命とその後の観光・産業発展の可能性は、今なお地域経済に大きな影響を与えている。
石垣島架橋計画の現実味

もうひとつ重要な資料が、沖縄県公文書館に所蔵されている1971(昭和46)年2月10日付けの八重山観光協会から屋良朝苗主席宛に提出された陳情書である。
この陳情書は、復帰後の沖縄振興計画に八重山群島を「一大観光ゾーン」として位置づけることを求める内容で、具体的には石垣空港の拡充や観光会館の建設とともに、海上道路の建設も提案されている。この文書には、他の資料には見られない記述も含まれている。
「道路の技術面につきましては建設省土木研究所基礎研究室長吉田巌氏の調査でも可能性が認められております。唯基礎調査がなされるのが先決であると言われております。つきましては熊本県天草五橋の例にならい離島振興法を主軸として推進すれば実現するものと信じておりますので個別の御配慮を賜り(以下略)」
おそらく『琉球新報』が「橋の専門家」として取り上げていたのは、この吉田氏である。吉田氏は、福岡県の若戸大橋や長崎県の西海橋の設計・施工を担当し、本四連絡橋の基礎調査にも関わったことで日本の建設史に名を残した橋梁の権威である。このような人物が関与していたことから、石垣島と西表島間の架橋計画が単なる夢物語ではなく、実現の可能性が高い計画であったことが理解できる。
しかし、このような積極的な動きがあった後、資料には架橋計画に関する情報がまったく見られなくなる。その理由は不明である。